何年も前にやっていた八重の桜というNHKの大河ドラマを久しぶりに見ました。
そして、見ていて、涙が止まらなくなりました。
『八重の桜』という同志社大学を創設した新島襄の妻で新島八重の一生をドラマにしたものでした。
この記事の目次
新島襄の自責の杖事件(新島襄の信念と真剣に問題に対して向かう姿勢)
今日見た八重の桜のあらすじは、
同志社大学の前身の専門学校の存続が難しい状態にあるときの話しです。
アメリカからの支援を受けているので、いろいろな人の意見も聞かなければならないなか、
二つのクラスを一つにして存続を目指そうとします。
でも、学生たちに十分な説明もなくすすめたため、
学生たちがそのことに反対して授業をボイコットしてストライキをします。
アメリカ人の教師たちは言うことを聞かせて、授業をボイコットしたことに対して、
罰を与えるべきだと主張しました。
そして、新島襄は、全員をあつめて、
十分な説明をせずにことを進めたことに対して頭を下げて謝りました。
そして付け加えました。
でも、学生は授業を受けることは権利であるのに
そのことを放棄したことについては、罰を受けなければならないと強く責めます。
でも、新島襄は言いました。
『しかし、そのこともなにも
すべての責任は校長であるわたしの責任です。
その罰は、わたしが受けます。』と言って、
講壇の上に自分の左手を置き、
右手に杖のような棒を持って、その
棒を振り上げました。
そして、その棒を強く振り下ろして自分の左手の甲を強くたたきました。
そして、二度、三度、四度、五度、六度と続けて強くたたきつけています。
学生たちが止めても、新島襄はやめようともせず、
その棒が折れてもなかなかやめませんでした。
そして、学生たちだけでなく教師たち全員で止めました。
(その時の折れた棒が残っていると番組の最後でその実物が映し出されていました。右の杖の写真が今も残っているその時折れた杖です。)
その時、わたしは、涙が止まりませんでした。
新島襄の信念と真剣に問題に対して向かっている姿勢に感動しました。
なんと自分は、いろいろなことから逃げているのだろう。
すべての責任は、わたしにあるという姿勢ではなく、
自分の責任も誰かの責任にして自分の立場だけを守ろうとしているかのような生き方を深く反省しました。
それと同時に、ある話しを思い出しました。
息子を愛するお父さんが愛ゆえに取った信じられない行動
相当昔に聞いたはなしです。それは、ある男の子とそのお父さんの話しです。
その男の子は、お腹がすいたらお店で食べ物を盗んでしまうことがよくありました。
そして、お店の人に捕まって何度もお父さんが呼び出されていました。
その男の子も良くないことだから何度もやめようとも決心しました。
でも、その癖はなかなかなおりませんでした。
その男の子はお父さんのことが大好きでした。
だから、何度もお父さんから叱られて、
もうこれ以上お父さんを悲しませることをしないと思うのですが、
気がついたら盗んでしまっているのです。
ついにお父さんは、今度また盗みをしたら、ただではすませないと
今まで見たこともない恐ろしい顔で真剣に忠告しました。
今度また盗みをしたら、
火ばち(昔、暖をとるために丸い大きなツボのようの火鉢に真っ赤に萌えた炭をいれていたものです)
のなかで赤く燃えている鉄の火ばしを、
その盗みをする右手に当てて、もう二度と盗みができないようにすると言いました。
男の子はお父さんの真剣な顔を見て本当に今度こそ絶対に盗まないと決心しました。
しばらくは、盗みをせずにすみました。
でも、ある時、どうしてもお腹がすいてパンを盗んでしまったのです。
そして、気がついた時には店員に捕まって、お父さんが呼び出されました。
お父さんが引き取りに来ましたが、お父さんは一言もしゃべりません。
家に帰って、お父さんは、息子に言いました。
悪いことをしたのだから、
約束を守れなかったのだから、
罰を受けなければならないと。
そう言うと、息子の右手を強く握って床におきました。
そして、赤く燃えた鉄の火箸を振り上げました。
男の子は、
泣きじゃくりました。
それでも、父親はやめようとしません。
そして振り上げられた赤く赤く燃え盛っている火箸は振り下ろされました。
『ジュー』っという音とともに、
鼻をつく何かが焼けこげる匂いがしました。
男の子は目をつぶったままおそろしいおおきな悲鳴をあげました。
でも、
しばらくしても痛みを感じません。
どうしたのかと
恐る恐る目を開けると、その赤い火箸は、
男の子の手ではなく、父親の手の甲を焼いていたのです。
父親の顔はゆがんでいました。
そして、おとうさんは苦しみながら言いました。
『お父さんがかわりに罰を受けたけれど、もう二度と盗みをしてはいけない』と話しました。
その男の子は、泣きながら、
本当にもう二度と、しないと誓いました。
その男の子は、自分の受けなければならない罰を身代わりに受けてくれた父親の真実な愛を知ったのです。
新島襄の学生たちの罰を代わりに受けた場面を見て、息子の代わりに罰を受けた父親の話しを思い出しました。
そしてもっとすごいあなたのための話しをさせてください。
あなたを愛して、あなたの受ける罪の罰を身代わりに受けてくださった方は、イエスキリストです。
あなたが罰を受けなければならない罪の身代わりに
手を痛めたことよりも、火箸で大火傷をしたことよりも
もっとすごいことをしてくださった方がおられます。
ですから、新島襄よりも、そのお父さんよりも本当に素晴らしいのは、
わたしの受けるべき罪の刑罰を身代わりに十字架で受けて、尊きいのちを捨ててくださったイエス様です。
◉聖書 ヨハネの福音書 3章16節◉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。