◎神様の計画と、人間的思惑の違い・・・リビングストーンとモハット

 ロバート・モファットという宣教師のことは知っていました。しかし、彼の信仰の歩みの結果、デビット・リビングストンがアフリカ伝道の働きへ導かれたということは知りませんでした。

 

 

 

昔、スコットランドの田舎で、ある長年勤めた牧師が辞任に追いやられました。

 というのは、この老牧師の在任期間中にたった一人の少年しか洗礼を受けられなかったからです。
 

牧師として大きく教会を成長させることできなかった責任が役員会で厳しく問われた結果でした。

 

 

しかし、この一人の幼い庭師見習いの少年出会ったロバート・モファットは後日、宣教師となってアフリカのクルマン地方へ行って伝道し、リバイバルを起こしました。

 実際、クルマン地方の全部族が救われ、現地のベチュアナランド語で聖書翻訳を成し遂げたのです。
 ロバート・モファットの娘がやがて結婚しましたが、そのパートナーも同じ意志を受け継いで宣教師として生涯をアフリカにささげました。

 

 彼はアフリカ奥地へと宣教網を拡大し、後の大きなアフリカ・リバイバルの礎を築き上げました。

彼の名は著名な宣教師であり、探検家のリビングストンです。

 過去の名も無きスコットランドの一老牧師の働きは人からはまったく賞賛を受けることはありませんでした。

しかし、神様にとっては素晴らしい働きだったのです。

 

しばらくの後、海外で大きな実を結んだのです。

 

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」(ガラテヤ6:9)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3:11)

 

 私たちが神様のためになすことは、人からの称賛を受けるためではなく、神様の栄光をあらわすためであり、神様に喜んでいただくためです。

 

 この老牧師は、一生懸命働いたのに、多くの人が救われなかったことを悔やむことより、一人の少年がイエスキリストを信じ救われ、神様にすべてをゆだね歩もうとしていたことを神様に感謝したことでしょう。

 

 クリスチャンの歩みの成功は、どれだけの結果を残したか、どれだけの成果を上げたかではなく、どれだけ神様と共に歩み、神様の喜ばれることを成したかです。

 

 この老牧師のように、名もなき後世に名前が残らない多くの無名のクリスチャンたちが、喜んで神様のために働き、神様の素晴らしいみわざを後世に残しているのです。

 

 私がイエスキリストを信じて救われたのは、冬の寒い凍るような雪の夜に、駅でトラクト(神様のことを分かりやすく記した小冊子)を手渡してくれたクリスチャンがいたおかげです。名も知らない、顔も覚えていないけれど、本当に寒い寒い雪の中で、トラクトが雪で濡れないように身体でかばって笑顔で「ぜひ、これを読んで教会に行ってください。」と、喜びにあふれているように勧めてくれました。

CJN33 私は、少し離れたところでしばらく見ていました。

 

ほとんどの人が、寒いので手をポケットに入れたままで、手渡そうとしているのを全く無視して通り過ぎていました。

でも、さわやかにトラクトを配り続けていました。

私は、このクリスチャンの青年は、私が持っていないものを持っている。

そして、揺るがない確信を持っているように感じました。

その揺るがない確信を私も手にいれたいと思いました。

 

それから、しばらくして、私は思い切って教会に行きました。

 

●コリント人への手紙第一 15章58節●

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 何千人という人々の空腹を満たすのに何の足しにもならないけれど、

イエス様に5つのパンと2匹の魚をささげた少年のように、私のようなちっぽけな者の働きでも、神様が大きく用いてくださることを願って一歩でも半歩でも前に進んでいきたいものです。

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