
「神様の愛は“口先だけの言葉”じゃない。十字架は愛の証明であり復活は愛の証拠です!」
この記事の目次
1) 導入:愛って、何で「本物」だと分かるのですか?
みなさんに質問です。
「大好きだよ」とか「あなたのためにどんなことでも喜んでします。」って言葉は、誰でも言えます。
でも、本当に愛してるかどうかは、どこでどのようにしたら分かるでしょう。
答えはシンプルです。
“その人のために、どんな犠牲をを払ったか”で分かります。
時間。手間。恥。痛み。お金。
つまり、愛の本気度は 払われた犠牲の大小で明らかにされます。
そして聖書は言います。
神様の愛は、史上最大の犠牲を払った愛だ! と。
2) まず現実:私たちは神様を無視してきた(=罪)
聖書でいう「罪」は、ただ悪いことをした回数の話だけではありません。
もっと根っこにあるのはこれです。
①神様を人生から外して自分中心で生きること
「神様抜きで大丈夫」
「困った時だけ頼る」
「自分が人生の王様で、神様は脇役」
これが続くと、心の中にいろんなものが出てきます。
ねたみ、見下し、怒り、嘘、自己中心、誰かを傷つける言葉…。
外側を飾っても、内側がザワザワして落ち着かず不安になる日ってありませんか?
聖書は言います。
「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)
つまり、私たちは神様に向かい礼拝するものではなく
神様を神様と認めず逆らい刃向かって神様に対して反抗ばかりしてきた者”なのです。
本当は、
わたし達は、神様に焦点をあてて神様をうやまう者なのですが、
事実は、自分自身に焦点をあてて自分を高めようとして神様という本当の的をはずしている者です。
この的はずれが聖書でいう【罪】です。
ここが大事です。
神様が愛したのは、
「いい人になった私たち」ではなく、
神様を無視し、逆らっていた私たちです。
3) 神様の愛の証拠①:罪人のときに、キリストは私たちのために死んだ
聖書の中で、いちばんストレートな言葉があります。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。
神はそれによって愛を明らかにした。」(ローマ5:8)
ポイントはここです。
◎ “まだ罪人のとき”
◎ “私たちのために”
◎ “死んだ”
これ、愛の証拠として強すぎませんか。
普通、愛って「いい人に向けて」流れます。
でも神様の愛は、逆方向です。
敵みたいに背を向けてるわたしたちへ向かってくる。
4) 神様の愛の証拠②:十字架は「身代わり」という愛の証明
ここで、たとえ話をします。
あなたが大きな失敗をして、責任を取らないといけない。
本来ならあなたが払うべき代償がある。
そのとき、まったく関係ない人が来てこう言ったらどうですか。
「その責任、私が引き受ける。あなたの分まで払う。」
…普通はありえません。
でも、もし本当にそうされたら、
“愛されてる”ことを疑えますか?
聖書は、十字架の意味をこう言います。
-
「神は、ひとり子を遣わした」(ヨハネ3:16)
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「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8)
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「御子は…私たちの罪のためのささげ物」(Ⅰヨハネ4:10)
十字架は「かわいそう」な出来事ではなく、
神様が“あなたを見捨てない”という決定のサインです。
そしてここが“証明”ポイントです。
神様は、罪を「まあいいか」といういいかげんな妥協ができない方です。
なぜなら、神様は聖い(きよい)正しいかたです。
ですから、どんな小さな罪でも見過ごすことができない方なのです。
もし、聖い正しい義なる神様が、
罪をいいかげんに扱ったとしたら
それは、もう、聖い正しい義なる神様ではなくなってしまうからです。
「罪」にはかならず「罰」がともないます。
罪は、神様との関係を壊し、人を壊し、人生を壊しました。
そして人(わたしもあなたも)が犯した罪は
神様はそれを軽く扱わない。
聖書には、
【人間は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている・・・】(へブル書6勝27節)という恐ろしい神様からの警告が記されています。
でも、罪の裁きという神様からの警告には【罪の裁きからの救い】が実行されました。
わたしたちは、「命懸けで・・・」ということばをよく使います。
しかし、「命懸けで」という言葉だけでなく、
事実
神が人となってこの世に来てくださったイエスキリストは、
【わたしたちを罪の裁きから救うために】
身代わりに十字架で刑罰を受けて下さいました。
身代わりに十字架で尊いいのちを捨てて下さったのです。
「罪」にはかならず「罰」がともないます。
そしてその罪を裁くのは神様です。
罪人が罪人を裁くことはできません。
ですが、神は創造主であり正しさ聖さの完全なるかたです。
神様は、罪人の罪を裁くことをイエスキリストを十字架に付け死なせ完成させました。神様は神様に敵対していたわたしたちを見捨てずに、イエスキリストの尊いいのちを敵であるわたしたちのために犠牲にしてくださったのです。
愛の大きさは、どのようにして測れますか?
愛の大きさは、そのために払われた犠牲の大きさによって測ることが出来ます。
だから、
🟢神の正しさ(わたしたちの罪を裁き放置できない)
🟢神の愛(敵であるわたしたち罪人を救うために犠牲を払われた)
この両方が交差する場所が、十字架なのです。
5) 神様の愛の証拠③:復活は「支払い完了の神の証明書」
もしイエスが十字架で死んで終わりなら、
それは「悲しい美談」で終わります。
でも福音は違います。
イエスは復活したからです。
(Ⅰコリント15:3–4 が要点です。「死んで」「葬られ」「よみがえった」)
復活は何を意味するのか。
たとえるならこうです。
💡 十字架=支払われたという事実
💡 復活=「支払い完了」の神様からの証明書
神様からの証明書があるから、
「本当に済んだんだ」と言える。
同じように復活は、
神様の救いが“気休め”じゃないことの印です。
そして復活があるから、
あなたの過去も、失敗も、罪も、
“やり直せない物語”ではなくなるのです。
6) 福音とは何か:神様の愛が、あなたの人生に入ってくる知らせ
福音(よい知らせ)って、こういうことです。
✅ 神様はあなたを造った(あなたは偶然の産物じゃない目的をもって創造された)
✅ でも人は神様から離れ、罪で神様との関係が壊れた
✅ しかし神様はわたしたち罪びとを見捨てず、イエスキリストを十字架で死なせるためにこの地上に送った
✅ 十字架でわたしたちの罪の刑罰を身代わりに受け、復活で神様との関係を正しく修復し新しいいのちを受けた
✅ だから「赦し」と「神様との正しい関係」と「永遠のいのち」が与えられる
ここで誤解しないでください。
福音は「ちゃんとしなさい」ではありません。
福音は「あなたが変わりきったら愛す」でもありません。
聖書は言います。
「恵みによって救われた」(エペソ2:8–9)
つまり、プレゼントなんです。
たとえで言うなら――
🤣神様の救いは「合格した人への賞品」じゃない。
😊 「自分ではどうすることもできないわたしたち罪という底なし沼でもがき罪という底なし沼にのみ込まれるしかないわたしたち罪人への救いの御手」みたいなものです。
7) いちばんわかりやすい例え:放蕩息子の父(ルカ15章)
イエスキリストは神様の愛を、こう描きました。
家を飛び出し、好き放題し、ボロボロになって帰る放蕩息子。
普通なら「ほら見ろ!」と説教です。
でも父は、
✅ 走って迎え
✅ 抱きしめ
✅ 回復のしるしを与え
✅ 喜びの宴会を開く
これが神様の愛の心だ、とイエスキリストは語ったのです。
神様は、あなたが近づく前に、
もう心を向けて待っていて下さいます。
8) 今日の結び:神様の愛の“証拠”は、十字架と復活
最後に、超シンプルにまとめます。
✅ 愛の証拠:「罪人のときに、私のために死んだ」(ローマ5:8)
✅ 愛の証明:「身代わりという方法で、正しさと愛を両立させた」(Ⅰヨハネ4:10 など)
✅ 確かな印:「復活が、救いが本物だと示す」(Ⅰコリント15章)
だから、神様の愛は“気分や言葉だけ”ではありません。
歴史の中で、
行動で、
代償で、
示された愛です。
9) 招き(幼子のようになて素直に神様の前で罪を悔い改めましょう)
もしあなたが、
「神様を無視してきた」
「逆らってきた」
「でも、心のどこかで神様の愛が欲しい」
そう感じるなら。
今、心の中でこう言ってみてください。
「神様、もし本当に私を愛しているなら、わたしの神様に対する罪をわかるようにしてください。
イエス・キリストの十字架が私のためだということを、受け取れるように助けてください。
そして、わたしのために死なれたイエスキリストが墓に葬られ三日目に復活されたということが事実であることを教えて下さい」と。
聖書は約束します。
「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)

