【紅海が割ける】「もう終わりだ」と私の計画が終わったと思った時に、神様の計画が動き出し海が割れる

この記事の目次

「もう終わりだ」と私の計画が終わったと思った時に、神様の計画が動き出し海が割れる

(中心聖書箇所:出エジプト記14章。補助:13章後半・15章冒頭)

1.プロローグ:行き止まりが来た日

1)「これで終わりだ」と思う瞬間

計画は順調なはずでした。
エジプトを出た。
自由へ向かって歩き出した。
ところが、進むほどに景色が怪しくなります。
道は細くなり、足元は砂に変わり、前方には海が見えてきました。
青く広がる海は本来なら希望の景色のはずです。
しかし、この時の海は、まるで巨大な壁のようでした。

その瞬間です。
背後から、遠くで地面が震えるような音がしてきます。
「ドドドド…」
戦車の車輪が砂をかみ、軍勢が迫ってくる音です。
振り返れば、砂煙の向こうに、ファラオの軍が押し寄せています。
前は海。
後ろは敵。
右も左も逃げ道がない。

人はここで思います。
「もう終わりだ。」
「私の計画はここで終わった。」
祈りさえも、言葉にならない。
こういう場面は、聖書の中だけの話ではありません。
人生にも、突然“紅海”が現れる日があります。
前にも進めず、後ろから追われ、心が折れそうになる日です。

2)不可能の壁は何のためにあるのか

ここで、今日の大切な学びが立ち上がります。
**不可能の壁は、私たちの信仰を止めるためではなく、主を仰ぐために置かれることがあります。**
**見えるものではなく、神の言葉に立つ学びがここにあります。**

神は、私たちを困らせるために壁を置かれるのでしょうか。
そうではありません。
むしろ神は、私たちが“自分の計画”の限界を知る場所で、神の計画を見せてくださるのです。

2.ひやひや第一幕:背後の敵と、前方の海

1)背後の敵は「軍隊」だけではない

敵は戦車でした。
でも、本当に恐ろしい敵は、目に見える軍隊だけではありません。
民の心に入り込む、恐れの声です。

「あのエジプトの方がまだマシだった。」
「自由なんて無理だった。」
「神に従ったのが間違いだった。」

苦しみは、心の中で“都合の良い過去”を作り出します。
奴隷の鎖を忘れさせ、逃げた先の恐怖だけを大きく見せます。
恐れは、神の恵みを小さく見せる名人です。

私たちにも似たことがあります。
過去の失敗が追いかけてくる。
罪悪感が追いかけてくる。
人の評価が追いかけてくる。
「どうせお前は変われない」という声が、背後から迫ってくる。

背後の敵は、ただの出来事ではありません。
私たちの心を、神から引きはがそうとする力でもあります。

2)前方の海は「未知の恐怖」

前には海があります。
海は、未来のようです。
どこまで深いか分からない。
足場があるのか分からない。
一歩踏み出したら沈むかもしれない。

人の計画は、見える道の上でしか歩けません。
地図にない道は怖い。
保証のない道は不安です。

けれど、信仰は違います。
信仰は「先に道が見えるから進む」のではなく、
「神が言われるから進む」のです。
ここが、紅海の場面の核心です。

3.転換点:主のことばが、民を立たせる

1)「恐れるな」—最初に立て直されるのは心

民は叫びます。
「私たちはここで死ぬのか。」
怒りが混ざった叫びもあります。
「なぜ連れ出したのか。」

そのとき、モーセが立ちます。
モーセ自身も怖かったはずです。
けれど彼は、恐れを土台にせず、神の言葉を土台にします。

「恐れてはならない。」
「しっかり立って、主の救いを見よ。」

この言葉は、現実逃避ではありません。
目を閉じろと言っているのではありません。
“敵も海も見えている上で”、それでも主を見上げよ、という招きです。

恐れがなくなってから信じるのではありません。
恐れの中で、神の言葉にしがみつく。
それが信仰です。

2)「黙っていなさい」—救いは自分の力では生まれない

人は追い詰められると、何かをしなければ落ち着きません。
叫ぶ。責める。焦って動く。
しかし神は、まず心の方向を変えさせます。

救いは、あなたの勢いから生まれない。
救いは、あなたの正しさから生まれない。
救いは、主の御手から生まれる。

ここで問いが生まれます。
私は苦しいとき、何にすがって自分を救おうとしているだろう。
神の言葉より先に、感情の波を土台にしていないだろうか。

4.わくわく第二幕:海が割れる夜

1)神の指示は意外なほど簡単

神は言われます。
「杖を上げよ。」
「手を海の上に差し伸べよ。」
「民に前進するように言え。」

「えっ、今、前進?」
民は思ったでしょう。
海はまだ海です。
割れていない。
道は見えない。

でも、ここが神の方法です。
神は、道が完成してから呼ぶこともできます。
しかし神はしばしば、道が見えない時に「進め」と言われます。

そして夜通し強い風が吹きます。
水が動き始めます。
海が、左右に分かれ始めます。
神の計画が、静かに、しかし確実に動き出す。

2)海の真ん中を歩く—信仰は一歩ずつの現実

道ができたとしても、歩くのは怖い。左右には水の壁。
足元は湿った砂。
背後には敵。
前には暗い道。

それでも彼らは歩きます。
ひやひやしながら。
それでも、わくわくも混ざっている。
「本当に道がある…!」

信仰は、英雄のジャンプではありません。
小さな一歩です。
足を置いたところが、道になる。

ここで、あなたの人生にも重なります。
神が開く道は、いつも“一本道”とは限りません。
けれど、主が共におられる道です。
主が「進め」と言われるなら、その一歩は無駄になりません。

5.決着:敵は止められ、民は救われる

1)救いは「守り」だけでなく「断ち切り」まで含む

民が渡り切ったとき、敵も追ってきます。
同じ道を。
同じ海の中を。

しかし最後に、水は戻ります。
追手は止められます。
ここに神の救いの厳粛さがあります。

神は、半分だけ救う方ではありません。
途中まで守って、最後は運任せにする方ではありません。
神は、民を生かすために、追手を止められます。

私たちの人生にも「追手」がいます。
罪。恐れ。過去の鎖。
神はそれらを、永遠に追わせ続ける方ではありません。
断ち切る救いを、用意しておられます。

2)向こう岸に立ったとき、初めて分かること

民は岸に立ちます。
息を切らしながら。
涙を流しながら。
「生きている…!」

この瞬間、彼らは知ります。
自分の計画は終わった。
けれど神の計画は終わらなかった。
むしろ、ここからだった。

6.十字架と復活の香り:紅海は“救いの型”

1)紅海は「死の壁」から「いのちの道」へ

紅海の前で、人は無力です。
でも神は、道を開かれました。
「ここから先は無理だ」と思う場所が、通り道になった。

これは、神の救いの型です。
私たちにも、越えられない壁があります。
それは最後に「死」という壁です。
そして、その背後には「罪」の問題があります。

2)十字架と復活:本当の追手を断ち切る救い

紅海の物語の“香り”は、十字架に続きます。
私たちの罪という追手は、どこまでも追ってきます。
しかし主イエスは、十字架でその罪を背負い、
復活によって死を打ち破られました。

だから私たちは知ります。
神の救いは、ただの感動話ではありません。
本当に追手を止める救いです。
本当に新しい岸へ移す救いです。

紅海の向こう岸は、自由の始まりでした。
十字架と復活の向こう側は、永遠のいのちの始まりです。

7.結び:あなたの「紅海」はどこにあるのか

祈りで閉じるのではなく、今日は問いで閉じたいと思います。

あなたの前にある「海」は何でしょうか。
あなたの背後から迫る「追手」は何でしょうか。
それは出来事ですか。病ですか。人間関係ですか。罪悪感ですか。恐れですか。

そして、もっと深い問いです。
あなたは、海の前で何を土台に立っていますか。
見えるものですか。自分の経験ですか。誰かの評価ですか。
それとも、神の言葉ですか。

もう一つ。
「もう終わりだ」と思った場所で、あなたは何を決めますか。
あきらめて戻りますか。
それとも、主の言葉に立って、まだ見えない道に足を置きますか。

紅海の物語が私たちに突きつけるのは、これです。
神は“海を割れる方”である。
しかし同時に、私たちがどこに信頼を置くのかが問われる。

あなたの計画が終わる場所は、絶望の場所でしょうか。
それとも、神の計画が始まる入口でしょうか。

その境目に立つのは、今日かもしれません。

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