【聖書通読第4週5日目】創世記48章49章マタイ20章「祝福を渡す信仰」「言葉を残す信仰」「比較から自由になる信仰」

「祝福を渡す信仰」「言葉を残す信仰」「比較から自由になる信仰」

この記事の目次

祝福の場面

ヤコブは晩年、ヨセフの子どもたち(エフライムとマナセ)を呼び、手を置いて祝福します。
ここで印象的なのは、ヤコブが目の前の状況だけで祝福していないことです。彼は自分の歩みを振り返り、「神が私を養い、守ってくださった」という確信に立って、次の世代へ祝福を渡していきます。
信仰は「その場の気分」ではなく、「神がここまで導かれた」という記憶の積み重ねで形になります。

逆転の祝福

ヤコブは、わざと右手を弟エフライムに置き、兄マナセではなく弟を先に祝福します。ヨセフは驚きますが、ヤコブは「私は知っている」と言って祝福をやり直しません。
これは、神の選びと導きが、人間の順番や常識を超えることを示します。人の目には「普通はこちら」と見えても、神は別の道を選び、別の形で実を結ばせます。

この章で神が私たちに望んでおられること

神は、あなたの信仰を「自分だけの話」で終わらせず、次へ渡すことを望んでおられます。
ここで問いかけです。あなたが今大切にしているものは、次の世代に何を残せるでしょうか。お金や成果だけではなく、神に守られてきた経験、祈り、祝福の言葉を残せているでしょうか。

創世記49章 人生の総括と「言葉の祝福」

ヤコブの預言的な言葉

ヤコブは息子たち一人ひとりを呼び、言葉を語ります。これは単なる遺言ではなく、息子たちの性質、過去の選択、未来に起こることを含む重い言葉です。
祝福というのは、優しい言葉だけではありません。真実を言い、方向を示し、神の前に立ち返らせる言葉でもあります。

失敗があっても物語は終わらない

ルベン、シメオン、レビには厳しい言葉が出てきます。彼らの過去の罪が、将来に影響するからです。
しかし、厳しい言葉で終わらないのが聖書です。神は、人の失敗を「終わり」にせず、やがて救いの流れの中で用いていかれます。
そしてユダに対しては、王の系統が続くことが語られます。ここにはメシヤ(キリスト)につながる約束の香りがあります。

この章で神が私たちに望んでおられること

神は、私たちが「人生の終わりを見据えて」今を生きることを望んでおられます。
問いかけです。あなたは自分の歩みを、神の前で正直に振り返れているでしょうか。後悔や罪を隠していないでしょうか。そして、家族や周囲の人に「いのちを与える言葉」を語れているでしょうか。

マタイ20章 恵みは「功績」ではなく「主の憐れみ」

ぶどう園のたとえ(主の報酬の考え方)

この章の中心は、ぶどう園の主人のたとえです。朝から働いた人も、夕方から働いた人も、同じ賃金を受け取ります。

※ぶどう園の労働者のたとえ - レンブラント


 

すると、早くから働いた人が不満を言います。「自分の方が働いたのに」と思うからです。
しかし主人は言います。「私はあなたに不当なことをしていない。私のものをどう使おうと、私の自由ではないか。」
ここで示されるのは、神の国が「実績の競争」ではなく、「恵みの世界」だということです。

人の心に潜む比較とねたみ

このたとえは、私たちの心の奥にある「比較」がどれほど根深いかを照らします。
人はつい、他人と自分を比べます。自分の苦労は大きく見え、他人の恵みは軽く見えます。
しかし、神がくださる救いも祝福も、根本は「恵み」です。努力が無意味なのではありません。ただ、神の愛は努力の交換条件ではない、ということです。

この章で神が私たちに望んでおられること

神は、あなたが「比較」ではなく「感謝」で生きることを望んでおられます。
問いかけです。あなたは最近、誰かの祝福を見て心がざわついていないでしょうか。「自分の方が頑張っているのに」と思っていないでしょうか。
主は今日、あなたを「ねたみ」から自由にし「恵みの喜び」に戻したいと願っておられます。

まとめ 祝福のバトンと、恵みの喜び

創世記48章は「祝福を渡す信仰」。
創世記49章は「人生を神の前で総括し、言葉を残す信仰」。
マタイ20章は「恵みによって立ち、比較から自由になる信仰」です。

神は、あなたの歩みをここで終わらせず、次へつなげたいと願っておられます。
そして、あなたが恵みを「計算」するのではなく、恵みを「喜ぶ者」として生きることを望んでおられます。

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