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聖書通読 第5週3日目(水)出エジプト記7–8章/マタイ23章
今日は「神の力」と「人の心」の両方が、くっきり見える日です。
奇跡が起きても、心が固いままだと変わらない。
でも主は、裁くためだけでなく、目を覚まし、自由へ導くために語り、行動されます。
その視点で読むと、怖い場面が「希望の入口」に変わっていきます。
出エジプト記7章|主のしるしと、固くなる心
1)内容の流れ
主はモーセとアロンを立て、ファラオの前に遣わされます。
アロンの杖が蛇になるしるしが示されます。
しかしファラオは、呪法師たちのまねを見て心を固くします。
続いてナイル川が血に変わる災いが起こり、国は混乱します。
それでもファラオの心は向きを変えません。
2)学べること
神のしるしは、見世物ではなく「主が主である」ことを知らせるためです。
一方で、人は不思議を見ても、自分の立場や損得を守ろうとして心を固くできます。
つまり問題は、情報不足よりも「心の向き」のほうにあります。
主は、力でねじ伏せるためではなく、真実を示し、悔い改めへ招くために働かれます。
3)神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私は、神の言葉を聞きながらも、結論だけ先に決めて心を閉じていないでしょうか。
主が望まれるのは、完全な理解より、へりくだって聞く姿勢です。
「主よ。私の心の固さに気づかせてください。」
この祈りは、今日の通読を深くします。
出エジプト記8章|災いが続き、交渉ではなく悔い改めが問われる
1)内容の流れ
蛙の災いが起こり、生活が成り立たないほど国が乱れます。
ファラオは一度「祈ってくれ」と頼みますが、楽になるとまた心を固くします。
次にぶよの災いが起こり、呪法師たちは「これは神の指だ」と認めます。
さらにあぶの災いが来ますが、主はイスラエルの住む地を区別して守られます。
ファラオは「この地で礼拝せよ」など条件を出しますが、結局は手放しません。
2)学べること
苦しい時だけ神を頼り、楽になると元に戻る。
これはファラオだけの話ではなく、私たちの心にも起こり得ます。
また「少しだけ従う」「条件つきで従う」は、救いの喜びを薄くします。
主は交渉相手ではなく、礼拝される王です。
そして主は、民を苦しみから解放するだけでなく、真の礼拝者として立たせようとしておられます。
3)神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私は、困った時だけ祈り、落ち着くと神を後回しにしていないでしょうか。
主が願っておられるのは「一時しのぎ」ではなく、心の方向転換です。
完全に整ってからではなく、今あるまま主に向き直ること。
主はそれを喜んで受け止めてくださいます。
マタイ23章|外側の敬虔と、神が喜ばれる心の真実
1)内容の流れ
イエスキリストは律法学者やパリサイ人の姿勢を厳しく語られます。
重い荷を人に負わせるのに、自分は動かさない。
人に見せるために敬虔を飾る。
名誉や席を求める。
そして「わざわいだ」と繰り返し、偽善を暴きます。
最後に主は、エルサレムを思って嘆かれます。
裁きの言葉の奥に、招ききれなかった悲しみがにじみます。
2)学べること
信仰は、外側の形が整うほど安心しやすいものです。
でも主は、形よりも中身を見ておられます。
口では神を語りながら、心は自分の評判を守る。
正しさを掲げながら、人を愛せない。
そのズレを、主は放置されません。
なぜなら私たちを責めたいのではなく、真実のいのちへ戻したいからです。
3)神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私は、信仰を「人に見せる姿」や「自分の正しさ」を守る道具にしていないでしょうか。
主が望まれるのは、低くなる心と、神を愛し人を生かす実です。
そして主は、責め立てて終わりではなく、嘆きながら招いておられます。
「わたしのもとに来なさい。」
この声に応える時、信仰は息を吹き返します。
今日のまとめ|奇跡より先に、心が問われる
出エジプト7–8章は、主が本気で救い出される物語です。
同時に、人の心がどれほど固くなり得るかも映し出します。
マタイ23章は、外側ではなく内側を主に差し出すよう招きます。
今日の通読で覚えたいことがあります。
主は、私たちを「宗教っぽい人」にするためではなく、自由な礼拝者にするために導かれます。
だから祈りは短くてよいです。
「主よ。私の心の固さを砕き、あなたに向く心をください。」
この祈りを添えて読むなら、今日の章はあなたの中で生きて働きます。

