
この記事の目次
聖書通読 第4週2日目。創世記42・43章/マタイ17章
罪の記憶を揺らし、信頼を育て、栄光と現実を結ぶ主
今日の通読は。とても“人間らしい”場面が続きます。
飢饉。恐れ。罪の記憶。家族の緊張。
そして新約では。山の栄光と。谷の痛み。
でも。ここに一本の線があります。
それは。神様が「救いへ向かう道」を静かに整え続けておられるという線です。
私たちが気づかないところでも。神様の計画は止まりません。
創世記42章。飢饉は“心の奥”を開く道具になる
42章は。飢饉によって家族が動かされるところから始まります。
食べ物がない。生きるために動かなければならない。
こういう外側の圧力が。内側の問題を表に出すことがあります。
兄たちはエジプトで厳しく扱われ。閉じ込められ。追い詰められます。
そのとき彼らは。昔のヨセフへの罪を思い出します。
「あの苦しみを見たのに助けなかった」と。自分たちの心が責められます。
ここは大切です。
神様は。罪を思い出させて“ただ落ち込ませる”ために働かれるのではありません。
むしろ。ごまかしを終わらせて。回復の道へ導くためです。罪を認める痛みはあります。
けれどそれは。いのちの方向へ向かう痛みです。
そして42章では。シメオンが残され。兄たちは帰されます。
穀物の袋に銀が戻されているのを見たとき。彼らは恐れます。
神の前に立っていない心は。恵みさえも「罠かもしれない」と疑ってしまう。
人の心は。それほど揺れやすいのです。
でも神様は。その揺れの中でさえ。悔い改めへ向かう入口を開いておられます。
創世記43章。恐れの中で。神は“信頼”を育てる
43章は。さらに切実です。
食糧が尽きます。
再びエジプトに行かなければなりません。
しかし条件がある。ベニヤミンを連れて来い。
ヤコブは苦しみます。
ヨセフを失った痛みがまだ癒えていません。
「また失うのではないか」という恐れが心を握っています。
私たちも似ています。
過去の痛みがあると。神様の導きより「最悪の想像」に心が引っぱられます。
でも神様は。恐れを責めるより。信頼を育てようとなさいます。
ここでユダが前に出ます。
「私が保証になります」と言います。
これは。兄たちの変化のしるしでもあります。
かつて彼らはヨセフを売り。守るどころか傷つけました。
しかし今。守ろうとする言葉が出てきます。
神様は。すぐに完成品を求める方ではありません。
少しずつ。少しずつ。心の向きを整えてくださいます。
エジプトで。ヨセフは兄弟たちを迎えます。
食事が備えられます。
しかしヨセフの内側では。言葉にならない涙があります。
ここにも神様の導きがあります。
神様の働きは。派手な奇跡だけではありません。
食卓の準備。旅の緊張。小さな会話。心の揺れ。
そういう“舞台裏”で。救いの道が組み立てられていきます。
マタイ17章。山の栄光と。谷の痛み。両方に主がおられる
マタイ17章では。主イエスの栄光が示されます。
変貌山で。主は輝き。弟子たちは驚きます。
神様はここで。弟子たちに確信を与えられます。
「この方こそ救い主だ」と。
けれど主イエスは。山の上に留まられません。
谷へ降りて行かれます。
そして苦しむ父親と子どもに向き合われます。
ここが福音の温かさです。
主は。栄光の場所だけの方ではありません。
痛みの場所に降りて来てくださる方です。
弟子たちはうまく助けられず。主は「信仰の薄さ」を語られます。
でもこれは突き放しではありません。
「わたしを頼ってよい」という招きです。
さらに主は。再び十字架の道を語られます。
栄光から十字架へ。
谷の痛みに降りる救い主。
ここに。復活へ続く道が見えます。
恵みは。「資格」ではなく。
「主よ。助けてください」と寄り頼む信仰に注がれます。
今日の通読で。神様が願っておられること
神様は。
隠し続けて心が硬くなるより。
痛みがあっても真実を光の中に差し出しなさいと願っておられます。
それは責めるためではなく。赦しと回復へ導くためです。
神様は。
失う恐れに心が支配されるより。
小さくても神様に信頼を差し出すようにと願っておられます。
神様は。私たちの弱さを知りながら。なお導きを止められません。
神様は。
山の栄光だけで終わる信仰ではなく。
谷の現実の中で。主イエスに頼る信仰を働かせるように願っておられます。
主は苦しむ場所に来てくださり。十字架へ向かう愛を示された方だからです。
今日の3章は。はっきり語っています。
神様は。罪の記憶すら用いて。悔い改めの入口を開き。
恐れの中でも信頼を育て。
栄光と痛みの両方で。主イエスを見上げさせてくださいます。
【ちょっと一休み】ノアの箱舟はおとぎ話しか?それとも事実か?


