エジプトの十の災いは「怖い話」ではなく「自由への脱出劇」です。

 

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十の災いは「怖い話」ではなく「自由への脱出劇」です。

出エジプト記の十の災いは、ただの天変地異ではありません。
神様が、モーセを通して、ファラオの心の城門をたたき、
閉じ込められていた民を解放へ導く「救いの物語」です。

舞台はエジプト。
そこは当時、世界の大国です。
軍隊も、経済も、権力も、揃っている。
そしてファラオは「自分が王であり神だ」という顔で座っています。
その国で、奴隷として苦しむイスラエルの民がいました。
泣き声は、日常のBGMのように消され、希望は薄くなっていました。

でも神様は、その声を聞き逃しません。
「わたしは、あなたがたの苦しみを確かに見た。」
神様は、救いの計画を動かします。

そこで呼ばれたのがモーセです。
彼は勇者というより、むしろ「自信のない人」でした。
「私は口が重い。」
「私には無理です。」
と言い訳もします。

しかし神様は、モーセの“能力”に期待したのではありません。
神様が求めたのは、完璧さではなく、従順でした。
「あなたと共にいる。」
この約束が、モーセの背中を押します。

ここが最初のポイントです。
神様は、強い人だけを用いるのではありません。
弱い人を、共に歩むことで用い、救いを始められます。

ファラオの心は「鍵のかかった扉」でした。

モーセが神様の言葉を告げても、ファラオは笑います。
「主とは誰だ。私は知らない。」
つまり「私が支配者だ」という態度です。

ここで私たちは気づかされます。
十の災いは、単にファラオを痛めつける話ではなく、
「誰が本当に世界を支配しているのか」を示す戦いなのです。

ファラオの問題は、情報不足ではありません。
心が閉じていることです。
そして神様は、その閉じた心の扉を、
“力で壊す”というより、
“真実を示し続ける”ことで開こうとされます。

十の災いは「段階的な呼びかけ」です。

神様は一気に最終手段へ行かれません。
まるで「もう一度、考え直しなさい」と
何度もチャンスを与えるように進みます。

たとえるなら、神様は消防車のようです。
火事が起きているのに「大丈夫」と言い張る家に、
サイレンを鳴らし、ドアを叩き、窓から呼びかけ、
それでも出てこないなら、最後は命を救うために強く介入します。
目的は破壊ではなく救出です。

災いは次々に起こります。

1. ナイル川が血に変わる。
2. 蛙があふれる。
3. ぶよ(または蚊)が増える。
4. あぶが襲う。
5. 家畜の疫病。
6.腫れ物。
7. 雹。
8.いなご。
9. 闇。
10.長子の死。

段階が進むほど、深刻になります。
そして途中からはっきり起きることがあります。
「イスラエルの地は守られる」という区別です。

これは神様が気まぐれに差別しているのではありません。
神様が「救いの約束」を持って民を守り、
その救いが恵みであることを示しているのです。

つまり十の災いは、
神様が“神の民を見捨てない”ことの証拠でもあります。

ファラオの「悔い改めっぽさ」と「元通り」が怖い。

災いが苦しい時、ファラオは言います。
「祈ってくれ。」
「行って礼拝してよい。」
「やっぱりやめろ。」

この繰り返しは、私たちにも刺さります。
苦しい時だけ神様を求め、
落ち着くと神様を後回しにする。
条件つきで従う。
「ここまでは従うけど、これは手放さない。」

でも神様はご存じです。
私たちが本当に自由になるには、
“鎖を一部だけ外す”では足りない。
根から解放される必要がある。

だから神様は、ファラオの中途半端な降参を
「それでよし」とせず、
本当の解放へと導かれます。

ここに神様の願いがあります。
神様が望んでいるのは、
“宗教的な妥協”ではなく、
“心が神に向き直ること”です。

そして最後に「過越(すぎこし)」が置かれます。

十番目の災いの前に、神様は道を備えます。
それが過越の小羊です。
家の門柱とかもいに血を塗り、
そのしるしのある家は災いが過ぎ越していく。

これが福音の影です。
裁きから守られるのは、
「自分が立派だから」ではありません。
神様が備えた“代価”のしるしによるのです。

そして新約では、この型が
十字架の主イエスにつながっていきます。
小羊の血によって守られたように、
キリストの十字架によって罪が赦され、
死の力から解放される道が示されます。

つまり出エジプトは、
「救い主の予告編」でもあります。

神様は何を願っておられるのか。

十の災いを通して、神様の願いは一貫しています。

1)神を神としてあがめること。

ファラオは「自分が王だ」と握りしめました。
しかし本当の王は主です。
神様は、私たちを小さくするためではなく、
本物の神に立ち返らせるために語られます。

2)奴隷の生き方から、礼拝者の歩みへ。

神様はただ苦しみを取り除くだけでなく、
民を「礼拝する民」として導きます。
自由とは、好き勝手ではなく、
神を中心にして生きられる状態です。

3)「共にいる」という約束を信じて、一歩踏み出すこと。

モーセは弱かった。
でも神様は「共にいる」と言われました。
神様が望まれるのは、完璧な人ではなく、
信頼して踏み出す人です。

結び。あなたの人生にも「小さな出エジプト」がある。

私たちの心にも、エジプトのような場所があります。
恐れ、怒り、依存、恥、過去、比較、自己否定。
それらが「あなたはここから出られない」と
奴隷のように縛ってきます。

でも主は言われます。
「わたしはあなたの苦しみを確かに見た。」
そして道を備えます。
一気にすべてが変わらなくても、
神様は段階的に真実を示し、
心の扉を叩き、自由へ導かれます。

今日、あなたができることは大きくなくていいのです。
モーセのように言えます。
「主よ。私は弱いです。でもあなたが共におられるなら、行きます。」

十の災いの物語は、
「神様の力は世界を動かす」という宣言であり、
同時に
「神様の愛は、奴隷を自由へ連れ出す」という約束です。

だから希望を捨てないでください。
主は今も、あなたを解放へ導いておられます。
そして最後に私たちはこう言えるようになります。
「主が、私をここまで連れ出してくださった。」

「主の真実はくしきかな(Great Is Thy Faithfulness)」は、

1923年にトーマス・O・チザムが詩を書き、ウィリアム・M・ルニャンが曲を付けた賛美です。
土台にあるのは、哀歌3章の「主のあわれみは尽きない。主の真実は大きい」という信仰告白です。

出エジプトの物語も同じです。
ファラオの拒絶が続き、災いが進むほど暗くなるのに、神の約束は揺れません。
民の弱さや状況の波に左右されず、主は「わたしが救う」と計画を前へ進めていかれます。

苦しみが長引くと、私たちは「今どこにおられますか」と感じます。
しかし、この賛美は静かに告げます。主の真実は変わらない。朝ごとに新しい。
だから今日、災いの物語を読む私たちも、恐れより信頼へと招かれています。

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