
「神が生かすために遣わされた」という摂理の宣言に合う賛美
『御手の中で(In His Time)』
この記事の目次
ヨセフの物語③(創世記42〜44章)
再会はすぐ和解にならない。神は“心の治療”を始められる。
飢饉が地を覆いました。
畑は乾き。麦の穂は実らず。家のかまどの火も弱くなります。
「エジプトには穀物があるらしい。」
その噂は風のように広がり。カナンにも届きました。
ヤコブは息子たちを見回し。ため息まじりに言います。
「なぜ、互いに顔を見合わせているのか。行って買って来なさい。」
そうして兄たちは袋を背負い。エジプトへ向かいました。
けれど、彼らは知りません。
あの国の“穀物の管理者”が、かつて自分たちが穴に落とし、売り飛ばした弟ヨセフだということを。
1.兄たちは気づかない。ヨセフは気づく。神の再会は“心を救う”ため
エジプトの宮廷。
整然と並ぶ倉。忙しく動く人々。
その中心にいる宰相ヨセフは、静かな目で一行を見ました。
兄たちが入って来た瞬間。
ヨセフの心は、わずかに揺れました。
「……兄さんたちだ。」
顔つき。歩き方。声の調子。
覚えていたくないのに、はっきり覚えている。
まるで古い傷口を指で押されたように、胸の奥がズキンと痛みます。
兄たちは頭を下げました。
権力者の前に出た旅人として。
そして、まさか目の前の人が弟だとは思わずに。
ここで私たちは思います。
ヨセフが仕返しをするとしてもヨセフを責めることはできません。
でも神は、ヨセフを復讐者にしませんでした。
わたし達には信じられないことですが、
神はこの再会を、ヨセフが奴隷として売られたときから計画されていたのです。
ヨセフは厳しい声で言います。
「お前たちはスパイだ。」
兄たちは慌てて否定します。
「違います。私たちは正直な者です。兄弟です。末の弟がいて、父がいます。」
“末の弟”
“父がいます”
その言葉は、ヨセフの胸を刺しました。
自分がいない間、家はどうなったのか。
父は生きているのか。
末の弟ベニヤミンは無事なのか。
ヨセフは感情に飲み込まれそうになります。
しかし神は、ヨセフの内側に“ブレーキ”をかけます。
今ここで必要なのは怒りの爆発ではなく、癒やしへ向かう道筋だからです。
2.ヨセフの厳しさは復讐ではない。回復させるための道筋であった。
ヨセフは彼らを牢に入れ。三日の後に条件を告げます。
「一人を残し、穀物を持って帰れ。だが末の弟を連れて来い。」
そしてシメオンが残されます。
兄たちは帰り道で言います。
「これは、あの弟のことで私たちに起こっているのだ。」
そうです。
神は、忘れたふりをしていた罪の記憶を、ゆっくりと“表”に出されます。
それは責めるためだけではありません。
罪を覆い隠したままでは、心は本当に癒えないからです。
骨折した足は、すぐ走らせたらもっと悪くなります。
まず固定して、痛みを少しづつ取り去りながら、正しく整えて、回復のリハビリが必要です。
神は、壊れた家族関係にも同じように働かれます。
急いで「はい仲直り」と終わらせず、根っこの部分を扱い、治していかれるのです。
さらに驚く出来事が起こります。
兄たちは宿で袋を開け、銀が戻されていることに気づきます。
「どうしてだ……!」
彼らは恐れます。
「神が私たちの罪を追いかけて来るのではないか。」
ここでも神の御業があります。
神は“良心”を眠らせたままにされません。
罪を軽く扱わない。
でも、赦しへ向かう道を閉ざさないのです。
神は、悔い改めの入口へ導くために、心を揺さぶられる出来事を用いられます。
3.ベニヤミンを連れて来る。神は“父の痛み”も“兄弟の絆”も扱われる
カナンに戻った兄たちは、父ヤコブに報告します。
しかし父は言います。
「末の子は行かせない。兄は死に、この子だけが残ったのだ。」
父の言葉に、空気が重くなります。
ヨセフの不在は、父の心に深い傷として残っているのです。
家族は、まだ完全には回復していません。
それでも飢饉は続きます。
穀物は底をつき。人は生きるために食べる者が必要です。
ついにユダが父に言います。
「弟がいなければ、私たちは買えません。どうか行かせてください。私は責任を負います。」
ここにも神の“治療”があります。
かつては責任を負わなかった者が、今は責任を引き受ける。
神は、家族の内側に変化の芽を育てておられます。
兄たちは再びエジプトへ。
そしてついにベニヤミンが現れます。
ヨセフは彼を見るなり、胸の奥が熱くなります。
声を保つのが難しい。
「……この子が、父の言っていた弟か。」
ヨセフは急いで部屋を出て、泣きます。
それでも彼は、まだ“最後の仕上げ”をやめません。
4.最後の仕上げ。弟を犠牲にするのか、守るのか
ヨセフは宴を開き、兄たちをもてなします。
ベニヤミンの取り分は、他の者の五倍。
ここでもヨセフは見ています。
「妬みはまだ残っているか。弟を憎む心が動くか。」
そして次の日。
ヨセフは銀の杯をベニヤミンの袋に忍ばせます。
兄たちが出発したあと、追手が来ます。
「杯が盗まれた!」
袋が調べられ、杯はベニヤミンの袋から見つかります。
ここで兄たちは、かつてと同じ場面に立たされます。
昔。
弟ヨセフが犠牲になったとき。
彼らは見捨てました。
穴から引き上げず、助けず、売りました。
今。
ベニヤミンが“罪人”にされるのか。
彼らはどうするのか。
また見捨てて帰るのか。
しかし、
兄たちは、全員で戻ります。
ここが決定的です。
神は兄たちの心を変え、家族を変え、物語を“赦し”へ向けて動かしておられます。
5.ユダの身代わり。十字架の影がはっきり見える
ヨセフの前で、ユダが前へ出ます。
長い弁明をし、父の痛みを語り、弟が必要だと訴えます。
そして最後に言います。
「どうか私を身代わりに残してください。
弟を父のもとへ帰してください。」
この言葉で、物語の空気が変わります。
かつて弟を売った兄弟が、今は弟を守るために自分を差し出す。
ここに悔い改めの実があります。
そしてここに、福音の影が見えます。
身代わり。
代価。
だれかを生かすために、だれかが自分を差し出す。
もちろんユダは救い主ではありません。
しかし神は、歴史の中に“型”を置き、救い主の道を指し示してくださいます。
後に来られる主イエスは、罪のないお方として、私たちのために身代わりとなって十字架にかかり、復活によって赦しを確かなものにされました。
ヨセフ物語の“身代わり”は、その香りを運んでいます。
クリスチャンへの励まし
神は「すぐ解決」より「深い回復」をくださる
この42〜44章で、神がしておられることははっきりしています。
神は、壊れた心を放置しません。
でも、急いで表面だけを整えることもしません。
神は、再会を用いて心を照らし、悔い改めを起こし、関係を回復へ導かれます。
あなたの人生でも同じです。
「もう終わった」と思うような失敗がある。
「取り返せない」と感じる過去がある。
「どうしてこうなった」と涙が出る。
けれど神は、そこで扉を閉じません。
神は、罪を軽くはしません。
しかし赦しへ向かう道を、必ず用意されます。
そして神の回復は、たいてい“ゆっくり”です。
けれどそれは、遅いのではなく、深いのです。
神はあなたの心を、丁寧に整え、神様の御栄光のために歩けるように導いてくださるのです。
次の45章では・・・
次の章(45章)では、ついにヨセフが涙で名乗り、赦しがあふれ出します。
神の恵みが、恐れを溶かす瞬間です。
あなたの物語にも、主はその瞬間を備えておられます。

