
◉以下の音声版を聴きましょう!!(9分03秒)
ある人から「クリスチャンになって今まで一度も信仰を捨てようと思ったことはありませんか?」と尋ねられました。
わたしは、「クリスチャンになって今まで一度も信仰を捨てようと思ったことはありません」と、
言いたいのですが、一度だけ信仰を捨てようと思ったことがありました。
いえ、思っただけでなく信仰を捨てました。そしてイエス様を裏切ってしまったのです。
日曜日に教会に行けないことが苦しくて礼拝したいと心から望んだ・・・

それは、イエスキリストを信じて(イエス様が私を愛して私の罪の刑罰の身代わりに十字架にかかって死んでくださったこと、また三日目に死の力を打ち破って甦られた救い主と信じ受け入れたとき)クリスチャンになってしばらくしたときのことです。
喜びがありました。
イエス様に愛されている感謝がありました。
しかし大学を卒業して自分が望んでいた第一希望の仕事内容の大企業に就職して満足していました。
将来の仕事の展望もいろいろ描き、夢を膨らましていました。
自分で言うのも恥ずかしいのですが、休みの日でも休まずに他の店舗に見学に行き、外から見るだけでなくそこで中に入って仕事をさせてもらって、いろいろな仕事の進め方を勉強させてもらっていました。
しかし、クリスチャンになって日曜日に仕事で礼拝に行けないことがだんだん苦しくなってきました。
日曜日は、イエス様が十字架で死に墓に葬られ三日目に復活された週の初めの日です。
だのに仕事で礼拝に出席できないということが辛かったので、
日曜日に仕事を休めないのなら、それ以外の教会の集会にいっぱい出席しようと思いました。
水曜日の祈祷会、金曜日・土曜日・日曜日の夜の聖書学び会にほとんど出席しました。
こんなにいっぱい出席しているのだからそれでいいと思いました。
でも、もっともっと苦しくなってきました。
イエス様が私を愛して私の罪の刑罰の身代わりに十字架にかかって死んでくださって、週のはじめの日曜日の朝に甦ってくださったのに、自分はその日曜日に礼拝できないということがどんどんしんどくなってきました。
日曜日に礼拝をするために仕事を辞める決心をする。

それで、仕事を辞めて、日曜日休みの仕事を捜そうと決心しました。
しかしすぐに決心できずに、何日も何日も迷い悩み苦しみました。
せっかく、安定した大企業の会社に就職して、やりがいのある仕事が見つかったのに・・・
将来の夢もできたのに・・・
いろいろ悩んだ結果、クリスチャンなら日曜日の礼拝を守るために日曜日の仕事を辞めなければならないから、仕事をやめようと決心したのではないのです。
クリスチャンならこうすべきだと言うのではなく、
クリスチャンであるわたしはどうしたいのかということを第一としたのです。
それで思い切って・・・
私の母親に話しをしました。
でも、母親は、せっかく大企業に就職し、安定が約束されていて。給料も高額なのに何故辞めなければならないといって、今まで見たこともないような悲しい顔をしました。
そして、黙って下を向いていた母が、急に号泣しました。
わたしは、それまで母親を泣かせたことは一度もありませんでした。
そして、どんなことがあっても親を泣かせてはならないと思っていたので、胸が締め付けられる思いでした。
その後、何日も考えました。
その結果、わたしは、どんなことがあっても母親を泣かせるようなことは間違っていると思いました。
そんなことがあって、私は教会に行くことを辞めようと思ってしまったのです。
信仰を捨てる決心をして教会に行かないようにしました。

苦しいけど仕方がないと思いました。これしか方法がないと自分自身を思い込ませました。
それから、一週間、二週間が過ぎました。
それまで日曜礼拝には行けなかったのですが、平日の夜の集会には数多く出席していたのに・・・
全く教会に行かなくなりました。
辛かったですが、目をそらしました。いっさい聖書も棚の奥にしまって見ないようにしました。
そのうちだんだん記憶や感情も薄れていって、無理やり過去のことにしようと努力しました。
しかし、どんどん辛く苦しく悲しくて仕方がありませんでした。
それで、どんどん苦しくなってくるのをごまかすために、倒れるくらい休まずに仕事に没頭しました。
そして、自分は信仰を捨てた、イエス様を捨てた、自分は神様を裏切ったのだから、もう神様から愛されるはずがないと思いました。
もういろいろ考えることが苦しくて、休みのときは、パチンコ屋に入りびたっていました。
でも、どんどん苦しくなってどうすることもできなくなりました。
そんな時、本屋で驚くべきものを発見!信仰が回復へ・・・

そんな時です、小さな本屋に入って何気なく見た雑誌から目を離すことができなくなりました。その雑誌のあるページにむごたらしい、惨めな、きたならしい絵がのっていました。
それは、イエス様の十字架の絵でした。
ここに書いていいのかわかりませんが、正直に書きます。その絵は、ひょっとすると無名の画家が描いた絵で全然、評価されないようなものだったと思います。もしくはただのイラストを描く人が描いた絵だったのかも知れません。
ですから、二度と、その絵を見ることは出来ていません。
しかし、イエス様の十字架の絵でこんなにむごたらしく、惨めで、きたなく気持ちの悪い絵はないでしょう。
何故なら、イエス様の釘打たれたところから血がしたたっているだけでなく、ウジ虫がわいているのです。その絵を見てわたしは、悔しくて悲しくてつらくてそばに人がいたにもかかわらず泣いてしまいました。
そして、イエス様に「何故ここまでしなければならないのですか?」とつぶやいてしまいました。
しかし、神が人となってこの罪けがれたこの世にきてくだりわたしの罪のために死んでくださったことは、わたしがウジ虫のために死ぬよりももっとすごいことです。
私の見た絵は、全く価値のないただの恐ろしい汚いだけの絵だったのかも知れません。
そして、本当の十字架はわたしがこの時に見た絵よりも、もっともっとむごたらしく、どんなすごい画家でも、その十字架のむごたらしさ、きたなさ、惨めさ、恐ろしさを絶対に表現することはできないでしょう。
そのとき、わたしは、はっきりと
この十字架にイエスキリストをつけたのはわたしの恐ろしい罪である
ということを確信しました。
そして、イエスキリストは、わたしのすべてを知っておられるのに、わたしを愛してくださっていること、そして、永遠に変わらない真実な愛でわたしを愛し続けてくださることを確信しました。
そして、たとえ仕事がなくても、持っているものすべてを失ったとしても、イエス様がいて下さればそれで十分であると確信しました。
◉聖書 ピリピ人への手紙 3章7節〜9節
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

