◉マツノギョウレツケムシの生き方と死に方を知っていますか?
昨日の夢は、気持ちの悪い夢で、ケムシがいっぱい出てくる夢でした。
数日前に、外を歩いていて、数匹の毛虫を見たからかもわかりません。
その時に、この毛虫たちは何を考えて生きているのだろうとふと思ったからかもわかりません。
もちろん、毛虫たちは何も考えていないのですが、
子供の頃に、読んだファーブルの昆虫記のことを思い出しました。
マツノギョウレツケムシの観察の記録でした。
あまり本を読まない私は、
あまり興味がなく他の内容は読まなかったし、あまりよく覚えていません。
でも、マツノギョウレツケムシの記録は、小学生の私にとってすごいショッキングな内容で、なぜかよく覚えているのです。
行列を作って場所をさがす習性があるケムシだそうです。
ファーブルはその毛虫を何匹も捕まえて植木鉢の外側の周囲をぐるぐるまわらせたのです。
マツノギョウレツケムシは、
その名の通り、前のものの後ろにくっついて
植木鉢で一つの輪をつくり行列を始めます。
鉢の下には、エサも置いてあるのですが、
見向きもせずに、
ただ黙々と行列を作って前のケムシの後を追いかけてひたすら歩くのだそうです。
それを続けること8日間、
休みなく鉢のまわりをまわり続けたそうです。
そして、ついには
飢えと疲れで倒れて、下に落ちて死んでしまったそうです。
そして、行列が途絶え、輪が崩れてしまったというのです。
小学生であった私ですが、
何の意味もないことをひたすら続けるケムシが哀れで、
同じことをただ目的もなく繰り返すことがどんなに空しいことかと考えさせられました。
それから、だんだん成長して、
中学高校になった時に、自分がしていることに意味があるのか?
あまり意味がないことを続けなければならない虚しさを覚えることが多くありました。
その時、不思議とマツノギョウレツケムシのことをいつも思い出していました。
目的や意味を見出すことなく、
同じことをただ繰り返している自分とマツノギョウレツケムシの違いはなんだろうか?と。
そして、青年になったとき、私の環境は申し分のないものでした。
裕福ではなかったですが、いろいろなもので満たされていました。
両親や兄弟と仲良く楽しく過ごしていました。
学校では、友達もそれなりにいっぱいいました。
ですから、環境的にいうと満たされていると言える環境で、不満や文句をいうとそれはただのわがままであったと自分でも本当に思います。
でも、虚しかったのです。
いろいろな物やある程度のお金は満たされていたのですが、
なぜか虚しかったのです。
心にぽっかり穴が空いているかのような虚しさでした。
そんな時に、私は何なために生きているのだろう?
何の目的のために生きればいいのだろうと考えるようになりました。
それからも、いろいろな物や金銭でこころの穴を満たそうとはしました。
人生の目的は分からないが、
目標を決めてそれを目的にして一生懸命頑張る生き方が素晴らしい
そのように生きればいいんだと自分自身を思いこませようとしました。
それで、いろいろな計画をたて、
将来のためにいろいろな資格を得れば自分自身を高めることもできるし、
仕事や生きるということについて絶対に役に立つと思って頑張りました。
確かに、目標を定めてそれを目指して頑張るということで、
充実感と自己満足は大きく得ることはできました。
そして、資格取得という目標を達成できたら、
飛び上がりたいくらいの喜びと満足を得ることができました。
でも、でもです・・・
目標を達成した時は、
達成感と満足感が満ち溢れるのですが、
達成してしまうとまた虚しさが出てくるのです。
それで、また別の目標を定め頑張ってその目標を達成する・・・
ということを繰り返していました。
他の友達から見れば、
頑張ってすごい奴だと褒めてもらったりもしました。
でも、達成すると虚しいのです。
その虚しさを打ち消すためにまた頑張るということを繰り返しました。
そして、とうとうもう何もしたくない、
動きたくもない、
家から出るのもしんどい、
もうボーッとして何も考えない方が楽だと思うようになってしまいました。
家の中で、孤独にいると周りを気にしなくてもいい分、ある意味で楽だったのかもしれません。自分のところだけ時間が止まっていると思いました。
必死で頑張って、周りのみんなからすごいと言われていた私が、
何もしなくなったのです。
いえ、何もできなくなってしまったのです。
しばらくは、引きこもり状態でした。
この状態から抜け出すことができたのは、
絶対的な真理を見つけることができたからです。
そうでなければ、私はいまだにずっと家から出れなかったと思います。
生きる意味、目的を
はっきり見出すことができずに生きていることは、
マツノギョウレツケムシの生き方と変わらないと思うようになりました。
そして、周りの大人の人たちを見たり聞いたりしていると、
同じことの繰り返し、
生きる意味や目的がわからなくても、
その答えを求めることすらあきらめて、
ただ同じことを繰り返している生き方だと思いました。
あの人がこうしているから、この人がこうしていないからと、人を気にして、
人と同じことをすることで安心してしまう生き方を多くの人たちがしているのだろうと思いました。
自分は、地位や名声を求め、
お金や快楽を求める生き方ではない、
人の後ろをついていくことで安心する生き方ではない、
本当の生きる目的や意味を知って、
真実に生きたいと思うようになりました。
私は、このもののためだったらいのちを捨てても悔いはないと
思えるくらいのものが欲しいと強く思いました。
しかし、それは戦争の時の特攻隊のような生き方ではありません。
確かに、その当時の若い特攻隊の人たちは国のためにいのちを捨てるという信念を持って
死んでいったと思います。尊いことだと思います。
でも、その信念を持っていたとしても、
それが間違っていたら余計に虚しくなるだけです。
ですから、
そのためにいのちを捨てても悔いはないと思えるものは、
絶対的な真理でなくてはならないです。
時代によって変化するようなものであってはおかしいです。
そのような時に、
私は、雪の厳しい寒さの中で駅でチラシを配っている人からチラシを受け取りました。
家に帰ってそれを読むと正直その時はすぐに分からなかったです。
でも、読み物希望に◯をつけて、ハガキを返送すると、
すぐに切手をいっぱい貼って一冊の文庫本が送られてきました。
それは、三浦綾子原作『塩狩峠』でした。
切手代をいっぱい使ってすぐに送ってくれたものなので、
読まなければ申し訳ないと思って、すぐに読み始めました。
途中で何回かやめようと思ったのですが、
せっかく送ってくれたのだから真面目に読もうと思って、
読み続けると途中からやめれなくなって、朝くらいまでかかって読みました。
読み終わった時、私は涙が止まりませんでした。
寝ていないにもかかわらず頭が冴えてその日は眠れませんでした。
私は、いくらいのちをかけても惜しくないと思えるものがあっても、
それが間違っていたら意味がないと思いました。
でも、この小説が実話をもとにして書かれたものであると知ってびっくりしました。
主人公の青年は、乗っていた汽車が暴走した時、
ブレーキで止めようとしました。
それでも、ブレーキがきかずスピードをまして暴走し続けました。
大きなカーブを前にしてこのままだったら脱線するとわかりました。
脱線すると多くの人が命を失うということもわかりました。
でも、今ならまだ止めることができると直感しました。
しかし、その方法は、
自分の身体を暴走する汽車の下敷きにして列車を止めるという方法しかなく、
今しかないという時に・・・
主人公は、自分の身体を線路に投げ出したのです。
しばらくして、列車はとまりました。
主人公のいのちの犠牲によってです。
この主人公は、自分のいのちを捨てても悔いはないと思っていのちを捨てました。
そして、多くの人のいのちを救ったのです。
なぜ、そんなことができるのか私は全く理解できませんでした。
しかし、この青年はクリスチャンだったのです。
この青年は、自分はたとえ死んだとしても、
永遠の救いを得ている。
永遠の天国に行くことができると確信していたのです。
しかし、ここで多くの人が列車事故で死ぬと肉体的な死だけでなく、
永遠の滅びが待っている。
そのようなことは絶対に避けたいとこの青年は考えたのです。
この青年にとって、
『死は終わりではない』と確信して、
自分のいのちを捧げたのです。
この時は、私は、はっきり理解することができませんでした。
ただ、このことが作り話しではなく、
実際に明治時代の北海道で起こった事実であるということだけは理解できました。
そして、わたしはキリスト教会に行きだしました。
そして、なぜこの青年が自分の命を惜しみなく捨てることができたのか
その答えを必死で探しました。
そして、この青年の身代わりの死も素晴らしいことだけれども、
もっと素晴らしい身代わりの死があったと知りました。
それも、このわたしのために身代わりに十字架で死んでくださったイエスキリストがおられると知りました。
そして、わたしも信仰を持って、命を投げ出しても悔いのない真理を見つけたのです。
私は、青年の時に、このような思いで、教会に通い、真理を見出すことができて本当に良かったと思います。
もし、ある意味、純粋な思いのある青年のときではなく、
この世の、いろいろなことにどっぷりつかって、
生きる目的や生きる意味を考えるってことが、
子供じみたことだと思ってしまいやすい壮年になってからでなく、
良かったと本当に思います。
同志社大学創設の新島襄は、まだ、クリスチャンになる前に、
聖書の一番初めの創世記1章1節を読んで、うれしく思ったそうです。
『初めに神が天と地を創造した。』を読んで、
この世界は、偶然にできたのはない。
神様が目的をもって創造されたのだと知って、
人間も偶然に進化をしてできたのではなく、
神様が創造してくださったのなら、
目的があるのだということを知って嬉しくなったそうです。
偶然にできたのなら、
目的や意味なんかない、
でも、神様が目的をもって意味ある存在として私を造られたのなら、
その目的、意味を知りたいと強く思ったそうです。
そして、聖書をひっしでむさぼり読んだそうです。
私たちは、マツノギョウレツケムシのような空しい生き方ではなく、
目的をもって創造してくださった神様のために生きるという
素晴らしい生き方があるのです。