
信仰とは、神の贈り物を受け取る手と、神と共に歩む足のことです。
常識で考えると、人は『自分の行った行為に応じて報酬を受け取ることができる』と考えます。
国語辞典で『報酬』の言葉の意味を調べてみると、
『報酬とは、労働や行為の見返りとして支払われる金銭や物品や報いのこと。』
と明記されています。
ですから古くからある日本の多くの宗教でも、良い行いに応じて報いとしての救いが与えられると説いています。
そして天国に行くためには良い行いを積み重ねて神様に近づかなければならないと多くの人が思っています。
クリスチャンはどうでしょうか?
神様に礼拝を捧げ、献金を捧げます。神様に祈ります。しかしこのクリスチャンの行為は、救いという報酬を得るために行なっている行為でしょうか?
いえ違います。
救いという報酬を受け取るためではなく、救いという素晴らしい立場を受け取ったからこそ、
神様に感謝して礼拝を捧げ、
喜んで献金を捧げ、
感謝と賛美の言葉でもって神様に祈る
ことができるのです。
エペソ人への手紙 2章
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
(霊的に死んでいた私たちは自分の力で生き返ることはできない・・・)
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
(霊的に死んでいた私たちは、欲望のままに自分勝手な行いをしていた)
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―
6 キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(恵みによって福音を信仰の手で受け取って救われた。一方的な神様からの贈り物です)
わたしの行いによる報酬として『救い』が与えられたのではありません。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
一番最初の表題にあるとおり・・・
信仰とは、神の贈り物を受け取る手と、神と共に歩む足のことです。
罪人である私たちはどんなに良い行いを積み重ねようと努力しても、私たちの罪をどうすることもできず、罪裁かれる者でした。
しかし、憐れみ豊かな神は私たちを愛して私たちを救うために罪なき御子イエスキリストに全ての罪を負わせ身代わりに罰してくださったのです。
そして三日目に甦りイエスキリストこそ神の御子救い主と証明してくださいました。
このイエスキリストの十字架と復活が私のためであった信じる信仰で罪赦され永遠の救いを得ることができると神様は約束してくださったのです。
この神様の恵の約束を信仰の手を差し伸ばして受け取ればいいのです。
報いとして与えられる救いではなく、神様の恵みによって信仰によって与えられる救いなのです。
ですから、信仰の『手』によって受け取った救いを神様に感謝し喜び礼拝を捧げることができるのです。
そして神様のご栄光のために喜びと感謝を持って神様と共に『信仰の足』で歩むことができるのです。
私の今一番の願いは・・・
信仰の手によって受け取った救いの確信を持ち続けたい。
私の目で聖書の御言葉をもっと深く学びたい。
私の口で神様の愛と恵みの福音をもっと語りたい。
そして、神様と共に信仰の足で神様を喜ばせる確かな歩みがしたいです。