知られたいけど・・・知られたくない・・・
最近、

どうしようか迷っていることがあります。それは・・・

知って欲しい」という思いと、「知られたくない」という思い。

それは、
このブログを見て欲しいという思いと、あまり見られたくないという思いです。

複雑な思いです。

見てほしいというのは、

見てほめてほしいという自分をよく見せたいという思いです。評価してもらいたいという思いです。

見て欲しくないというのは、

悪い評価を受けたくないという自分の変なプライドです。

 

本当は、見てもらいたくないという思いを持っている人はブログをすべきではないのでしょうが・・・
自分のうちにある気持ちを正直に書こうとしている日記を書いているのだから人に見られるという時に複雑な思いになるのでしょう。

自分の嫌なところや欠点を知られたくないという思いから、見られたくないと思い、

自分の本当は誇りたいようなところ(本当はそのような人に誇れるようなところはないのですが・・・)ちょっと良いことをしたら人に見てもらって褒めてもらいたいと思うどうしようなく情けないところが私にはあります。

私は人から見られて情けないと思われるところや、ダメだと思われるところがいっぱいあるので仕方がないのですが、そのような情けない私を見捨てることなく愛してくださる神様の素晴らしさを知って欲しいと強く思います。私を知ってほしいというのではなく、神様の素晴らしさをもっともっと知って欲しいという思いから、このブログを見て欲しいのです。

今のこのブログを開設する前に、『ぽんこつクリスヤンのつぶやき』というブログを開設していました。その当時は、私をさらけ出すのは、私が本当にどうしようもなくダメなぽんこつなクリスチャンであることを逆に誇っていました。

それは、自虐的に自分を表現しているのではなく、

こんなダメなどうしようもなくぽんこつなクリスチャンでも、神様は愛してくださるということが嬉しかったからです。

私が絶対に隠したい愚かさや罪、そしてもう自分でも思い出したくなくて必死で忘れようとしている罪全てを神様はご存じです。

私が認めようとしない私の罪の全てを神様はご存じです。

 

例えば、ペテロという弟子は、「たとえ死をもってしてもあなたに従いとおします。」と自信満々で宣誓しました。

でも、その時にイエスキリストはご存じだったのです。ご自分が捕らえられ十字架にかけられる時、ペテロが3度イエスキリストを拒絶して裏切るということを・・・

ペテロは、3度目には「悪魔に呪われてもいいあんな者をしらない」と積極的な拒絶、絶対的な裏切りをしてしまったのです。

そのことをあらかじめ知っておられたにもかかわらずイエスキリストは、ペテロを愛し続けたのです。

十字架で死に、三日目に甦ったイエスキリストは、ペテロの対して3度尋ねました。

「あなたは私を愛しますか?」と・・・

ペテロはどんなに心苦しく情けなく辛かったでしょうか。

でも、イエスキリストはペテロを責めて3度「あなたは私を愛しますか?」と尋ねたのではないのです。

イエスキリストが伝えたかったのは、『3度ではなく何度私を裏切ろうとも私はあなたを愛します。』ということだったのです。

自分を裏切ることを知っていてその裏切り者をどんなことがあっても愛し続けることができるでしょうか。

ここに神様の愛があります。

 

ですから、神様の素晴らしさを一人でも多くの人と共有したいという思いからこれからも続けて私の愚かさはいくらでも明らかにしていきたいと思います。そして、そのことを通して神様の真実な愛を明確にしたいのです。

 

私は知られたくないことを隠したいと思います。
それは自分の嫌な面を知られると愛されないということが怖いからです。

私が知られたくない全てを知っておられる神様が、私を愛してくださり永遠の変わらない愛で愛し続けてくださるって本当にすごいことだと思いませんか?

 

詩篇139篇(聖書)

1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

 

●『神様』が「私」を知っておられるということは・・・完全

●「私」が『神様』を知っているということは・・・・・不完全

私が認めようとしない自分自身の嫌な面、愚かな面、罪深さ全てを完全に知っておられる神様が、私を見捨てて当たり前であるのに私を真実に愛してくださるって信じられない。
しかし、真実。
私は70年生きてきて、またクリスチャンとして45年生きてきて、本当だったら何度も数えきれない

くらい神様から見捨てられても当然な者です。

そして、ダメクリスチャンですが、神様の愛は変わりません。

なぜなら「私の全て」を『完全に知っておられる神様』がまず私を愛してくださったからです。
数えきれないくらい神様から愛想をつかされがっかりさせても仕方がなかったのに・・・

今「私」が知っている『神様』の知識は不完全です。

しかし、もうすぐ私が神様に完全に知られているように、天で私も完全に神様を知ることができるのです。

 

ピリピ人への手紙3章

20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

それは、イエスキリストとまみえる時です。

栄光の体に変えられて主とまみえ、

私が完全に知られているように 

私も神様を完全に知ることができるのです。

なんとすごいことでしょう。

「私」が『神様』に完全に知られているように

「私」が『神様』の全てを完全に知ることができるのです。

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