【聖書通読第7週6日目】出エジプト記は  「救い出す神」レビ記は  「救い出された民を、聖い神の前で生かす神」
スポンサーリンク

 

この記事の目次

スポンサーリンク

出エジプト記39章 幕屋は「言われたとおり」に整えられる章です

39章は、幕屋と祭司の装束が「主がモーセに命じられたとおりに」作られていく場面です。
繰り返し出てくるこの言葉が、この章の芯です。
人の好みや思いつきで礼拝の中心を作るのではなく、神が示された形に従って整えるのです。

特に祭司の装束は「神の前に立つ」ことの重さを語ります。
エポデ、胸当て、肩の石、額の「主への聖なるもの」というしるしは、礼拝が軽い気分ではなく、神の聖さに触れる出来事だと教えます。
同時に、神は近づく道を拒む方ではなく、近づく道を具体的に備えてくださる方でもあります。

神様が望まれていること

自分流に変える前に、まず神の言葉に従うことです。
「ここだけは譲れない」という自分の基準より、「主は何と言われたか」を優先することです。
その従順が、礼拝を形だけで終わらせず、心の中心を神に戻す入口になります。

スポンサーリンク

出エジプト記40章 完成と献げ、そして「主の栄光が満ちる」章です

40章では、幕屋が組み立てられ、すべてが所定の場所に置かれ、油注ぎによって聖別されます。
そして最後に、決定的な出来事が起こります。
**主の雲が幕屋をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた**のです。

これは「人がすごい建物を完成させた」という話ではありません。
神が、ご自身の民のただ中に住まわれることを示す出来事です。
荒野の旅は、道が厳しいだけでなく、不安が多い旅でした。
しかし民は、雲が上る時に進み、雲がとどまる時は宿営し、神の導きに合わせて歩むようになります。
神の臨在は、信仰者の歩みを「自分の勘」から「神の導き」へ移していきます。

神様が望まれていること

自分の計画を先に決めて「神に同意してもらう」のではなく、神の臨在と導きに合わせて歩むことです。
止まるべき時に止まり、進むべき時に進むことです。
礼拝とは、日曜の行事だけではなく、人生のハンドルを神に明け渡していく歩みです。

スポンサーリンク

出エジプト記からレビ記へのつながり 「住まいが建ったあと、どう近づくか」が問われます

出エジプト記の最後で、幕屋が完成し、主の栄光が満ちました。
ここで次に出てくる自然な問いはこれです。
**聖なる神が民の中に住まわれるなら、罪ある民はどうやってその神に近づけるのですか**。

そこで続くのがレビ記です。
レビ記は、単なる宗教規則の本ではありません。
「聖なる神の臨在のそばで、罪ある人が滅びずに生きる道」を示す本です。
ささげ物、贖い、きよめ、祭司の務め、生活の中の聖さなどが詳しく語られるのは、神が民を縛りたいからではありません。
神が民を守り、近づく道を整え、回復の道を開きたいからです。

出エジプト記は

「救い出す神」を強く示しました。

レビ記は

「救い出された民を、聖い神の前で生かす神」を示します。

先に救いがあり、次に歩みがあります。
先に恵みがあり、次に整えがあります。
この順序が崩れると、信仰は重荷になります。
しかし順序が守られるなら信仰は自由と感謝へ向かいます。

まとめ 今日の通読が問いかけることです

39章は、神の言葉に従って礼拝を整える章です。
40章は、整えられたところに神の栄光が満ち、導きが始まる章です。
そしてレビ記へは、「神が住まわれるなら、私たちはどう近づいて生きるのか」という流れでつながります。

今日、神様が私たちに望まれているのは、完成度の高い信仰ではありません。
まず、主が示された道に従い、主の臨在に合わせて歩むことです。
あなたの生活の中で、「神の言葉より自分流が優先になっている部分」はどこでしょうか。
そして、「雲がとどまっているのに走り続けている部分」「雲が上っているのに立ち止まり続けている部分」はないでしょうか。

主は、住まいを建てただけで終わらせず、近づく道まで備えてくださいます。
その恵みの流れの中で、次のレビ記を読み進めていきましょう。

スポンサーリンク

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事