【聖書通読・第20週:二日目】「完璧を求めない神の優しさ — 『受けるより与える幸い』からの歩み」

この記事の目次

【聖書通読・第20週:二日目】「完璧を求めない神の優しさ — 『受けるより与える幸い』からの歩み」(命記 10章使徒の働き20章)

1. 旧約聖書:申命記 10章の解説 砕かれた関係を「作り直す」神様の優しさ

① 「もう一度、石の板を作りなさい」という驚くべき恵み

申命記10章の冒頭で、モーセは過去の重大な大失敗を振り返ります。それは、神様から十戒が刻まれた最初の「石の板」をもらった直後のことです。山の下で待っていたイスラエルの民は、なんと「金の子牛」の偶像を作って大騒ぎしていました。

これを見たモーセは激怒し、聖なる石の板を地面に投げつけて叩き割ってしまいます。

普通なら、ここで契約は強制終了、人間は神様に見捨てられて終わりです。しかし、神様はモーセにこう言われました。

「前のと同じような二枚の石の板を切り、山にいるわたしのところに登れ。」(申命記 10章1節)

ここに、神様の信じられないほどの「赦しと回復の恵み」があります。神様は「もうお前たちとは絶交だ」と言わずに、「もう一度、新しく作り直そう」と言ってくださったのです。

私たちの人生も同じです。信仰の歩みが三日坊主になったり、誘惑に負けて自己嫌悪に陥ったりすることがあります。しかし、神様はいつでも「もう一度、板を切り出して、わたしのところに来なさい」と手招きしてくださるお方なのです。

② 箱の中に納められた御言葉

神様は、新しく作り直した十戒の石の板を「アカシヤの木で作った箱(契約の箱)」の中に納めるよう命じました。最初の石の板は、むき出しのままもたらされ、人間の罪によって砕かれてしまいました。しかし二度目の板は、箱の中に大切に守られ、保管されたのです。

これは、のちにイエス・キリストによって完成される「新しい契約」の預言的な影です。神様の御言葉は、私たちの外側にルールとして置いておくだけでは、人間の弱さによってすぐに破られてしまいます。だからこそ神様は、御言葉を私たちの「心の箱」の中に大切に納め、聖霊の力によって守ってくださるのです。

③ 神様が本当に求めている「心のお手入れ」

では、神様が私たちに求めておられる「本当に大切なこと」とは何でしょうか。モーセは神様の思いを強烈に代弁しています。

「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え……ることである。……それゆえ、あなたがたの心の包皮を切り捨てよ。二度と、うなじを硬くしてはならない。」(申命記 10章12〜16節)

聖書の中で「うなじを硬くする」とは頑固になることであり、「心の包皮を切り捨てる(心の割礼)」とは心の中にあるプライドや頑なな皮を剥ぎ取ることです。

神様が求めておられるのは、外側の立派な行為ではありません。「失敗だらけの弱い自分を認め、心を柔らかくして、神様の愛にすがりついているか」という、私たちの『心の姿勢』そのものなのです。

④ 弱い立場の人に寄り添う、スケールの大きな神様

この章の後半(17〜19節)では、神様がいかに偉大で、かつ繊細な愛を持っておられるかが描かれています。神様は、宇宙の主宰者であり、偉大で力強く、恐るべきお方です。

そんな偉大な神様が、何に目を留めておられるかというと、なんと「みなしごや、やもめ(未亡人)の権利を守り、在留異国人を愛して彼らに食べ物と衣服を与える」ことなのです。

社会の中で最も弱く、助けのない人々に、宇宙の創造主が個人的に寄り添っておられる。だから、神様に従うわたしたちも、周りにいる弱い人、孤独な人に愛の手を伸ばしなさい、とモーセは語ります。

2. 新約聖書:使徒の働き 20章の解説 涙の別れと、バトンを託す福音のランナー

① 命をかけた宣教の旅と、エペソの長老たちとの緊迫した別れ

舞台は新約聖書へと移ります。使徒パウロは、自分が3年間もの間、涙ながらに開拓し、育て上げてきた最愛の教会「エペソ教会」のリーダー(長老)たちをミラトの港町に呼び寄せました。

パウロはこれからエルサレムに向かうにあたり、そこで自分を待ち受けているのが「捕縛と苦難」であることを、聖霊によって強く確信していました。つまり、これが彼らにとって「生前最後の、涙の別れ(遺言)」になることを知っていたのです。

② 「自分の命は惜しくない」と言い切れる理由

パウロは、自分がエペソの町でどのようにへりくだり、涙ながらに試練の中で主に仕えてきたかを振り返ったあと、聖書全体の中でも屈指の名言を語ります。

「しかし、私が自分のいのちを惜しいと思ったことは、一度もありません。ただ、私の任務を全うし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を力強く証しする任務を果たすことさえできれば、それでよいのです。」(使徒 20章24節)

なぜ、パウロは自分の命をこれほどまでに捧げることができたのでしょうか。それは、彼自身がかつて「キリスト教徒を迫害していた最悪の罪人」だったからです。そんな自分を、復活のイエス様が圧倒的な愛で赦し、救いを与えてくださった。

あの十字架の赦しの恵みに比べたら、私のこのちっぽけな命を神様のために使い切るなど、大したことではない」という、福音に対する強烈な感動が彼を突き動かしていたのです。

③ 教会を襲う「狂暴な狼」への警告と、最高の委ね

パウロは、自分が去った後、エペソ教会に「群れを荒らす狂暴な狼(偽教師)」が入り込むという大きな危機を予言します。自分が命がけで守ってきた教会が、自分の留守中にメチャクチャにされてしまうかもしれない。人間パウロとしての不安はどれほど大きかったことでしょう。

しかし、ここでパウロは自分の執着を手放し、最高の「委ね(ゆだね)」を行います。

「今私は、あなたがたを神とその恵みの御言葉にゆだねます。御言葉は、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。」(使徒 20章32節)

パウロは、リーダーたちを人間の組織力に委ねたのではありません。「神様ご自身」と「恵みの御言葉」に委ねたのです。人間はいつかは去りますが、神様と御言葉だけは永遠に変わりません。御言葉そのものに、人間を内側から守り、成長させるダイナミックなパワーがあるのだというパウロの確信が、ここに現れています。

④ 「受けるよりも与えるほうが幸いである」

別れのメッセージの締めくくりに、パウロはイエス様の言葉を引用します。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた言葉を、覚えていなければならないのです。」(使徒 20章35節)

実は、このイエス様の言葉は「四つの福音書」には直接記録されていません。パウロが大切に記憶していた、イエス様の言葉でした。

私たちは、何かを得る(受ける)ことで幸せになろうとします。しかし、キリストにある本当の幸せは、「自分が満たされたからこそ、今度は誰かのために惜しみなく与えること」の中にあります。パウロは、自分の人生そのものを通して、この「与える幸福」を証明してみせたのです。

この言葉を語り終えた後、パウロは一同とともにひざまずいて祈りました。長老たちはパウロの首を抱いて、激しく泣き、彼を船まで見送りました。悲しい別れですが、そこには天の御国への確かな希望が輝いていました。

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