
わたしの愛は見返りを求める愛、神様の愛は見返りを求めない愛
― 失恋から知った“真実な愛”と“十字架・復活の福音” ―
失恋で崩れた「真実な愛」という思い込み
わたしは見返りを求めない愛だと思っていた
わたしが初めて教会に足を踏み入れたのは、クリスマスの時でした。
その頃のわたしは、失恋して打ちひしがれていました。
自分では、彼女を本気で愛していたと思っていました。
見返りを求めない、純粋な愛だと信じていました。
その彼女のためだったら自分のいのちでも捨てれると本気で思っていました。
この世にこんな純粋な愛があるのか・・・と自分の愛に酔いしれていました。
ところが、別れを告げられた瞬間、心の奥から別の声が聞こえてきました。
「あんなにしてあげたのに」という心の正体
「あんなにしてあげたのに。」
「どうしてわかってくれないんだ。」
その思いは、悲しみよりも強く、やがてねたみや怒りへと変わっていきました。
そのとき、はっとしました。
わたしの愛は、見返りを求めない愛だと思っていたのに、
実は、しっかり見返りを期待していたのです。
自分の愛に失望しました。
そして思いました。
「この世に、真実な愛なんてないのではないのか!!」と・・・
人間の愛の本質 ― 自分中心という限界
与えているようで実は期待している
人間の愛は、与えているようで、実は期待しています。
理解してほしい。
感謝してほしい。
応えてほしい。
それが悪いわけではありません。
でも、それは「条件付きの愛」です。
愛しているつもりでも、思い通りにならなければ傷つき、怒り、離れていく。
それが人間の愛の限界でした。
自分のいのちまでは差し出せない現実
どんなに愛していると言っても、
その人のために自分のいのちを差し出せるかと問われれば、
わたしは答えられませんでした。
犠牲は払えても、いのちは別です。
そこに、決定的な限界がありました。
聖書が語る神様の愛 ― アガペーの愛
そんな時、聖書の言葉が心に響きました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3章16節)
またこうもあります。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)
ここには条件がありません。
「良い人になったら」ではない。
「努力したら」でもない。
まだ罪人であったときに、です。
十字架は「無条件の愛」の証明
あなたを愛して、いのちを捨てた
教会で聞いた言葉が忘れられません。
「イエス・キリストは、あなたを愛して、あなたの罪のために十字架にかかって死なれました。」
( Jesus died for me. )
“あなた”という言葉が、
“わたし”に突き刺さりました。
わたしを愛して。
わたしの罪のために。
いのちを捨てた。
自分の愛に失望していたわたしにとって、
もし本当に見返りを求めない愛があるとするなら、
この十字架の愛しかないと思いました。
復活が示す絶対的真理
最初は信じられませんでした。
でも、白黒はっきりさせたかったのです。
中途半端では終われない。
これは永遠に関わる問題だと思いました。
数ヶ月後、イエス・キリストの復活が歴史的事実であると確信できました。
よみがえられたイエスキリストはわたしの主であり、わたしの神であり、救い主であると信じることができました。
そして確信しました。
神様は、わたしのすべての罪、愚かさをご存知なのに、
それでもなお愛してくださったということと、そしてこれからも永遠に愛し続けてくださるということです。
変えられた人生
それから、わたしは知りました。
神様の愛は、わたしがどうであっても変わらない。
成功しても失敗しても、
強くても弱くても、
神様の愛は変わらない。
見捨てられて当然のわたしを、
神はわたしを見捨てるどころか、わたしの替わりにイエス様を十字架で見捨てて下さいました。
そして、わたしには素晴らしい妻が与えられました。
それもまた、神様の恵みでした。
結論:真実な愛は存在する
人間の愛は揺らぎます。
期待し、傷つき、変わります。
しかし、神様の愛は変わりません。
見返りを求めない愛。
罪人のためにいのちを捨てる愛。
復活によって永遠に証明された愛。
わたしの愛は見返りを求める愛でした。
しかし、神様の愛は見返りを求めない愛でした。
そして今、わたしはその愛に生かされています。
