
この記事の目次
聖なる民として生きる。低く低く来られた救い主を迎える
レビ記11章/ルカ2章
今日の通読は、レビ記11章とルカ2章です。
一方は、清いものと汚れたものの区別が細かく語られる章です。
もう一方は、救い主イエス・キリストの誕生が語られる章です。
最初は、あまりつながらないように感じるかもしれません。
けれど、この二つを一緒に読むと、
神がご自分の民を「聖なる者」として生かしたいと願っておられること、
そしてそのために救い主を送ってくださったことが、よく見えてきます。
レビ記11章では、
食べてよい動物と、食べてはならない動物が区別されます。
地の動物、水の生き物、鳥、虫などについて、細かい規定が続きます。
現代の私たちには、少し遠く感じる章かもしれません。
しかし、この章の中心は、食べ物そのものよりも、「神の民は、神のものとして区別されて生きる」ということです。
神は、ご自分の民に「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖でなければならない」と語られます。
つまり、イスラエルは周囲の民と同じように流されて生きるのではなく、神に属する者として歩むように召されていたのです。
ここで大切なのは、聖さとは「立派に見せること」ではないということです。
聖さとは、神のものとして生きることです。
日々の食事のような、生活の細かな部分にまで神の教えが及んでいるということは、信仰が礼拝堂の中だけにとどまらず、生活そのものに関わるということを示しています。
神は、心だけでなく、生活のリズム、選び方、習慣の中でも、ご自分の民を聖なる者として育てようとされるのです。
新約の光に照らして読むと、この章はさらに深く見えてきます。
イエス・キリストが来られたことによって、食物規定そのものの扱いは変わりました。
しかし、「神の民は神に属する者として生きる」という本質は変わっていません。
私たちもまた、どのように話し、どのように選び、どのように日々を過ごすかにおいて、神のものとしての歩みが問われています。
信仰とは、特別なときだけではなく、普段の生活の中で神をあがめることなのです。
そのことを心に留めてルカ2章を読むと、
救い主の誕生がどれほど大きな恵みかが見えてきます。ルカ2章では、イエス様がベツレヘムでお生まれになります。
皇帝の勅令、宿屋に場所がないこと、飼葉おけに寝かされた幼子、夜の野にいた羊飼いたち。
どれを見ても、この誕生は人の目には華やかではありません。
けれど神は、まさにこの低さの中に、ご自分の救いを置かれました。
御使いたちは羊飼いたちに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と告げます。
この知らせが、王宮でも神殿の指導者でもなく、まず羊飼いたちに届けられたことは大切です。
神の救いは、高いところから始まるのではなく、低いところに届くのです。
そして天の軍勢は「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように」と賛美します。
ここに、神の救いの中心があります。
神の栄光と、人への平和が、救い主イエスによって結ばれたのです。
さらにルカ2章では、シメオンとアンナが登場します。
彼らは長く待ち望みながら、神の約束が実現する日を信じていました。
その待ち続けた者たちに、神は幼子イエスを見せてくださいます。
ここにも神の恵みがあります。
神は、救いを約束するだけでなく、定めた時に必ず成し遂げてくださる方です。
レビ記11章とルカ2章を合わせて読むと、
神の聖さと神の恵みが一つの道として見えてきます。
神は、ご自分の民が聖なる者として生きることを望まれます。
しかし、その聖さは、人間の力だけで作り上げるものではありません。
だからこそ神は、救い主を送ってくださいました。
低く来られたキリストによって、私たちは神のものとして生きる新しい道へ招かれているのです。
今日、神様が私たちに望んでおられるのは、
まず「自分は神のものだ」という意識を持って生きることです。
日々の生活の中で、何を選び、何を口にし、何を大切にするかにおいて、神に属する者として歩むことです。
また、救い主は高ぶる者のところではなく、へりくだる者のところに来られたことを覚え、自分の弱さの中で主を迎えることです。
今日の問いはこうです。
あなたの生活の中で、「ここは神様とは別」と切り離している部分はないでしょうか。
また、救い主を迎えるには自分はふさわしくない、とどこかで思っていないでしょうか。
ルカ2章の主は、飼葉おけに来られた主です。
だから、あなたの弱さや不足の中にも、主は来てくださいます。
そしてレビ記11章が教えるように、その主に属する者として生きるように、今日もあなたを招いておられるのです。
