【聖書通読 第22週5日目】罪人の尊厳を守る正義と、内なる葛藤からの完全な解放(申命記25章ローマ7章)

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【聖書通読 第22週5日目】罪人の尊厳を守る正義と、内なる葛藤からの完全な解放(申命記25章ローマ7章)

【旧約】申命記 25章 解説

申命記25章は、罪を犯した者や立場の弱い者に対する「神様のあわれみと正義」が、日常の具体的なルールとして描かれています。

まず心に迫るのは、有罪となった者への「むち打ちの刑」の制限です。当時の社会では刑罰が残酷になりがちでしたが、神様は「決して四十を越えてはならない」と厳命されました。その理由は「あなたの同胞が、あなたの目の前で卑しめられることがないようにするため」(申命記 25:3/新改訳)です。親が子を叱る際、愛ゆえの「しつけ」と感情的な「虐待」には明確な一線があるように、神様は人が過ちを犯したとしても、人間としての尊厳までをも徹底的に打ち砕くことを決して良しとされません。裁きの中にも、常に回復への余地と愛が残されているのです。

また、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」という教えは、働く者の労苦にきちんと報いる神様の優しさです。さらに、商取引において「二種類の重り」を持つこと(相手を見てごまかすこと)を神様は忌み嫌われます。誰も見ていないような隠れた不正を、神様は決して見過ごしません。

そして最後に、イスラエルが荒野で疲労困憊していたとき、最後尾にいた弱った者たちを卑怯な手口で襲撃したアマレク人への、厳重な処罰が命じられます。神様は、経済的な不正や、他者の弱さにつけ込む悪を絶対に許しません。目に見えないところで正しく歩むこと、そして弱い者の命と尊厳を徹底して守り抜くという、完全な愛と正義の主であることがはっきりと示されています。

【新約】ローマ人への手紙 7章 解説

ローマ人への手紙7章は、クリスチャンが誰しも直面する「理想と現実のギャップ」、つまり内面にある激しい葛藤を、使徒パウロ自身が赤裸々に告白している感動的な章です。

パウロはまず、私たちが「律法(ルール)」からどのように解放されたかを語ります。たとえば、公園に「ペンキ塗りたて、絶対に触るな」という立て札があるとします。人間はそれを見ると、かえって触ってみたくなる衝動に駆られます。立て札(律法)自体は親切で正しいのですが、私たちの内側にある「罪の性質」が刺激され、結果的に悪いことを引き起こしてしまうのです。

パウロは苦悩に満ちて叫びます。

「私は、自分のしたい善を行わないで、したくない悪を行っています」(ローマ 7:19/新改訳)

神様を喜ばせたい、愛をもって生きたいと心から願っているのに、いざ日常に戻ると、ささいなことで腹を立てたり、心の中で人を妬んだりしてしまう。自分の意志の力で罪という激流を逆上ろうとしても、結局は押し流され、溺れかけてしまう無力な自分への絶望です。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

しかし、この絶望のどん底から、パウロの目は一気に天へと向けられます。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」自分の力で泳ぐのをあきらめ、「助けてください!」と十字架の救命ボートに手を伸ばしたとき、私たちは初めて、自分の努力ではなく、キリストの恵みによってのみ救い出されるという本物の平安と勝利を経験するのです。

今日、神様がわたしに求めておられること

これらの御言葉を通して、神様が今日求めておられることは、「自分の弱さを正直に認め、ただキリストの十字架にのみすがりなさい」ということです。

私たちは日々、「今日も正しい信仰者でいよう」と自分の意志の力で頑張ろうとしては、ローマ7章のパウロのように失敗して落ち込んでしまいます。しかし神様は、あなたが自分の力で完璧になることを求めてはいません。「善を行えないみじめな自分」を隠さずに認め、「主よ、助けてください」とありのままの姿で神様の前に出ることです。

そして、自分のどうしようもない罪が、十字架の圧倒的な恵みによって赦されていることを知るなら、申命記25章が教えるように、他者の失敗や弱さに対しても「むち打ちの限度」を守る(相手の尊厳を不当に傷つけない)ことができるはずです。自分を厳しく裁くのをやめ、他人を裁くのをやめ、ただキリストの恵みと赦しに100パーセント頼って、誠実に今日という一日を歩むことを、神様は求めておられます。

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