
エホバの証人の人たちが輸血を拒否する根拠として挙げる中心聖句の一つに「レビ記17章」があります。ただし、レビ記17章だけではなく、「創世記9:4」 と 「使徒15:28-29」 もあわせて用いて、「血を避ける」とは血を体内に入れないこと全般だ、と理解しています。これは彼ら自身の『エホバの証人』公式説明でも明言されています。
しかし、結論から言うと、聖書が直接「輸血」を禁じてはいません。
なぜなら、聖書の「血を食べてはならない」という命令は、文脈上、食物として血を口にすること、またはいのちを表す聖なるものとしての血の扱いについて語っているのであって、現代医療の輸血という行為そのものを論じている箇所ではないからです。
レビ記17章では、血は「いのち」であり、祭壇で贖いのために用いられるものとして特別に扱われ、狩りで得た動物の血は「流し出して土で覆う」よう命じられています。
つまり主題は、食事と礼拝における血の聖別です。
また、使徒15章の「血を避けなさい」も、文脈では偶像に供えた物、血、絞め殺した物、淫らな行いが並べて命じられています。
これは初代教会において、異邦人信徒がユダヤ人信徒と交わる際、食卓と礼拝の聖さ、そして教会の一致を守るための指示として理解されるのが自然です。
少なくともこの箇所が、現代の医療処置としての「輸血」を直接論じているとは読み取りにくいです。
エホバの証人の人たちはここを非常に広く解釈して、
「口から食べるのでなくても、静脈から血を入れるなら同じことだ」と考えます。
実際、彼らは「アルコールを禁じられた人が、飲む代わりに静脈から入れたら同じだ」というたとえで説明しています。
つまり、彼らの誤りはたいてい聖書を軽んじているからではなく、むしろ真面目に従おうとして、適用範囲を広げすぎていることにあります。
ただ、ここで大事なのは、「血を食べること」と「輸血」は同じではないという点です。
食べることは消化であり、栄養摂取です。
輸血は消化ではなく、失われた循環機能を補う医療行為です。
この違いを無視して、「血が体に入るなら全部同じ」としてしまうと、聖書本文が語っている範囲を超えてしまいます。聖書は古代の食物規定と礼拝規定の中で血を語っているのであって、現代医学の手技を直接定義してはいません。
この記事の目次
では、なぜそのような間違いが起こるのか?
主に次のような理由が考えられます。
第一に、
文脈よりも語句だけを強く握ってしまうことです。
「血を避けよ」という言葉だけを取り出すと、たしかに厳格な全面禁止に見えます。けれども、前後を読むと、食物・祭儀・偶像礼拝との関係が見えてきます。
文脈を離れた厳密主義は、真面目さゆえに起こることがあります。
第二に、
象徴と適用を混同してしまうことです。
レビ記17章で血が特別なのは、血が「いのち」を象徴し、贖いに関わるからです。そこから学ぶべき中心は、いのちは神のものであり、贖いは神が定めた方法によるということです。
ところが、その象徴の意味をそのまま現代医療へ機械的に移し替えると、本文が意図していない結論に進みやすくなります。
第三に、
聖書全体の中心を見失うことです。
旧約で血が聖なるのは、最終的にキリストの血による完全な贖いを指し示しているからです。ですから血の教えの頂点は、「輸血禁止」ではなく、キリストのいのちが私たちのために注ぎ出されたという福音にあります。
レビ記の血の神学を読むとき、このゴールを忘れてはいけません。
では、聖書を正しく解釈するにはどうすればよいのでしょうか?
とても大切な問いです。

1. 文脈を読むこと
1節だけで決めず、その前後、章全体、書全体を見ることです。
レビ記17章なら、食物規定、祭儀、贖いの文脈です。
使徒15章なら、異邦人信徒とユダヤ人信徒の一致の問題です。
2. 何について語っている命令かを見分けること
食事の規定なのか、礼拝の規定なのか、道徳の規定なのかを区別します。すべてを同じ種類の命令として読むと混乱します。使徒15章では「偶像に供えた物」「絞め殺した物」も並んでいるので、かなり明らかに食と礼拝の文脈です。
3. 元の読者にとってどう聞こえたかを考えること
レビ記の最初の読者は、輸血という医療を知りませんでした。まずは彼らにとっての意味を考え、その上で今日への適用を慎重に考えるべきです。
いきなり現代の問題へ短絡しないことが大切です。
4. 聖書全体で読むこと
旧約の影は新約のキリストに向かいます。血の聖さは、最終的にキリストの贖いを指します。ですから、「血についての教えをどう守るか」という問いは、単なる外面的禁止よりも、キリストの十字架をどう受け止めるかへ向かいます。
5. 聖書が言っている以上のことを言わないこと
聖書が明確に禁じているなら禁じていると言うべきです。しかし、明記されていないなら、「私にはそうは読めない」「これは解釈上の適用にすぎない」と慎重であるべきです。ここで慎みが必要です。
私の理解では、
聖書は血を食物として軽々しく扱うことを禁じ、血がいのちを表し神に属することを教えています。
けれども、現代医療としての輸血そのものを直接禁じてはいません。
エホバの証人の人たちの理解は、聖書に従おうとする熱心さから出ていますが、食物規定・礼拝規定を医療行為にまで拡張しすぎた解釈だと考えます。
