
【聖書通読 第10週第4日目】「贖いの日と赦しの確かさ」—罪の問題に神が道を開かれる(レビ記16章/ルカ7章)
この記事の目次
レビ記16章(解説+私への薦め)
レビ記16章は「贖いの日」の規定です。年に一度、大祭司が至聖所に入り、民全体の罪のために贖いをする日として定められました。ここで強調されるのは、罪は軽い問題ではなく、神の前に人が近づくには罪が扱われねばならない、という現実です。同時に、神ご自身が「近づく道」を備えておられることも明確です。大祭司は勝手に入るのではなく、定められた手順に従い、血を携え、香の煙のもとで進みます。これは神の聖さを軽んじないためであり、また民を守るためでもあります。二匹のやぎのうち一匹は罪のためのいけにえとしてささげられ、もう一匹(アザゼルのやぎ)は民の罪を負わせられて荒野へ送られます。罪が「取り除かれる」ことが、目に見える形で示されます。
私への薦めは、
第一に、罪を曖昧にせず主の前に正直になることです。自分の弱さや隠したい思いを放置すると、心は重くなります。
第二に、赦しは神が備えた道によって与えられると信じることです。私は自分の努力で清くなるのではなく、神の恵みによって赦され、近づけられます。
第三に、罪が取り除かれる喜びを持って、心の向きを新しくすることです。神は責め立てるためでなく、回復させるために贖いを備えられました。
ルカ7章(解説+私への薦め)
ルカ7章は、主イエスの権威と憐れみが多面的に現れる章です。
百人隊長は「おことばをください」と信頼し、主は遠くからでも癒せる権威を示されます。
続いてナインの町で、主はやもめの一人息子を生きかえらせます。死の前で人は無力ですが、主は「かわいそうに思い」、言葉と行動で命を戻されます。
さらにバプテスマのヨハネの問いに対し、主はご自身の働きを示して救い主のしるしを明らかにされます。
後半では、罪深い女が涙で主の足をぬらし、香油を注ぎます。周囲は裁きますが、主は「あなたの罪は赦された」と宣言し、赦しの確かさを与えます。

ここで分かるのは、赦しは資格や体裁の報酬ではなく、主の憐れみを信じて近づく者に与えられる恵みだということです。
私への薦めは、
第一に、主の「おことば」に寄りかかることです。状況よりも主の言葉を重く受け取りたいです。
第二に、主の憐れみを疑わないことです。主は痛みや死の現実の中で、見ておられ、近づかれます。
第三に、赦しを受け取って終わりにせず、感謝と愛で応答することです。涙の女のように、赦された者として主を愛し、主を大切にする歩みへと心を向けたいです。
今日の中心メッセージ
レビ記16章は、罪が確かに取り除かれなければ神の前に近づけないこと、そして神ご自身が贖いの日を備えて赦しの道を開かれたことを示します。
ルカ7章は、その赦しと憐れみが主イエスにおいて現れ、病も死も罪も主の権威の前で退くことを語ります。私の救いは自分の出来ではなく、主が備え、主が語り、主が成し遂げてくださる恵みによって確かになります。
深く考える問い(300字)
私は今、罪や弱さを「小さなこと」として曖昧にしていないでしょうか。あるいは逆に、自分を責め続けて赦しから距離を取っていないでしょうか。神は罪を軽く扱わず、しかし赦しを惜しまず備えてくださいました。
私は主の言葉よりも、自分の気分や人の目を基準にしていないでしょうか。
今日、主が「近づきなさい」と開かれた道に、私は信頼して踏み出せるでしょうか。
主に愛された者として、どんな感謝の応答を選びますか。
