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【聖書通読 第10週第5日目】いのちは血にある。恐れを越えて、主に聞き従う道(レビ17/ルカ8)
説明文
レビ記17章は「いのちは血にある」と教え、神がいのちを贖う道を備えてくださったことを示します。ルカ8章は、主イエスの言葉が心に根を張り、恐れや病や嵐の中でも救いが現れることを語ります。今日の通読は「いのちは主のもの」という土台に立ち直し、主の声に従う信仰へ招かれます。
レビ記17章(解説+私に対する薦め)
レビ記17章は、
ささげ物の扱いと「血」についての命令が中心です。まず、いけにえは勝手にどこでもささげるのではなく、会見の天幕の入り口に携えて来るように命じられます。これは礼拝が私流の方法ではなく、神が定めた道に従ってささげられるべきことを示します。
また、野外で屠って偶像的な礼拝に流れる危険を避け、民の礼拝を主に向けて守る目的もあります。
続いて「血を食べてはならない」と強く語られます。その理由として「いのちは血の中にある」と示され、血は贖いのために与えられた特別なものだと教えられます。
つまり、いのちは人の所有物ではなく、神のものです。そして罪の赦しは軽いものではなく、いのち(血)が関わるほど重い代価が必要であることが分かります。
私への薦めは三つです。
第一に、礼拝を自分の都合に合わせて変えるのではなく、神の示される道に従うことです。
第二に、いのちを軽く扱わず、神から預かったものとして尊ぶことです。
第三に、赦しの重さを覚え、十字架の恵みを当たり前にしないことです。
私の罪が赦されるために代価が支払われたことを思うとき、心は引き締まり、同時に深い感謝が生まれます。
ルカ8章(解説+私に対する薦め)
ルカ8章は、神の国の言葉がどのように人の心に根を下ろし、現実を動かしていくかを示す章です。種まきのたとえでは、同じみことばが語られても、受け取り方によって実りが変わることが語られます。続いて「灯をともして隠さない」教えがあり、みことばは自分の内側だけにしまうのではなく、人生の光として現れるべきだと示されます。さらに、嵐を静める出来事は、主が自然の力の上にも権威を持つことを示し、恐れに支配される心を「信仰はどこにあるのか」と問い直します。悪霊につかれた人の解放は、見えない束縛を主が断ち切ることを示します。そしてヤイロの娘のよみがえりと、長血の女性の癒しは、主が「遅すぎる」と見える状況でも働かれることを語ります。
私への薦めは、
第一に、みことばを「聞いた」で終わらせず、心に留めて守り、忍耐して実を結ぶことです。
第二に、恐れが強いときほど主に向き直ることです。
第三に、自分の弱さや恥を抱えたままでも、主に触れてよいと信じることです。主は遠くから評価する方ではなく、近くで救いを実行される方です。
今日の中心メッセージ
レビ記17章は「いのちは血にある」と教え、赦しには代価があり、いのちは神のものだと示します。ルカ8章は、その神が御子イエスによって恐れ、病、嵐、束縛の中に近づき、解放と回復を与えることを語ります。私の信仰は気分ではなく、主の言葉と救いの確かさに立つものです。今日、主の前に心を開き、みことばに根を下ろして歩むよう招かれています。
深く考える問い
私は、いのちを「自分のもの」として扱っていないでしょうか。自分の正しさや安心のために、神の定めた道よりも自分のやり方を優先していないでしょうか。また、恐れが来ると、主の言葉より状況の声のほうを大きく聞いていないでしょうか。主は、赦しの代価を軽く扱わず、同時に苦しみの中へ近づいて救う方です。今日、私が主に差し出すべきものは何でしょうか。恐れ、恥、執着、自己流の礼拝……主の前で正直になれるでしょうか。
★聖書は【輸血】を禁じていますか?★

