最近、テレビで割り箸の袋で箸置きの折り紙を折るというのをやっていました。
それを見て昔のあることを思い出しました。
数年前のことになるのですが、ある人と一緒に外食をした時のことでした。
その時にその人が、私と話しをしながら割り箸の入っていた袋で、折り紙を作っているのを何気なく見えていました。
すると、何を作っていたのかはっきり見えなかったのですが、帰る時にテーブルの上に残されていたその折り紙の残されていた紙の端に、「ごちそうさま」と書いてあったのです。
すごい、かっこいいと感心し、お店の人は嬉しいだろうなと思いました。
そんなことを思い出しながら、またまた昔聞いた話しを思いだしました。
昔聞いた、長野県の小さな会社の話しです。
その会社の社長が、近くの食堂に昼食を食べに行くと、店の店主からお代はいらないと言われたそうです。
なぜかと社長が聞くと・・・
食堂に出前の注文が入って配達して、しばらくして器を引き上げに行くと、いつも店の主人はがっかりするそうです。
その時が、この仕事をしていて嫌になる瞬間らしいのです。
なぜなら、食べた後の器を食べ散らかしたかのようにそのまま汚れたままにして、おいてあるのが普通だそうです。
もちろん、お客様だから、食べた器をそのままにするというのに対して文句をいうことはできません。
でも、その器を下げにいくときが、一番この仕事をしていて嫌だと思う時らしいのです。
しかし、その社長の会社の社員の人たちに出前を配達し、その後、下げに行くと、すべての器がきれいに洗われていて、なおかつその器の上に白い布がかぶせてあるらしいのです。
だから、その会社の器を下げに行くときは、背筋が自然とピンと伸びて、すがすがしい気持ちになるとのことです。
そのことを聞いた社長の目には、自然と涙が流れていました。
なぜかというと、その長野県の小さな小さな会社の社長は、いつも社員達にこのように言っていたからです。
「この会社は、いずれ世界一の会社になる。だから、今は、ちいさなちいさな会社であるが、いまから、我々の会社が世界一の会社になったら、どのように考え、どのように思い、どのように対応するかを今からいつも考えて行動しよう。」と。
その社長の言葉通りに、社員は、自分たちの会社が世界一の会社ならどうするかをいつもいかなる時も考えて行動したらしいのです。
だから、世界一の会社なら、こうするはずだ、こんなことをしないはずだ、をいつも考え行動したそうです。
そして、今では弦楽器の会社として「世界一」になっているとのことです。
自動車の会社のホンダもそうです。まだ小さな町工場であったとき、ホンダの社長は、リンゴ箱の上に立って社員にこう叫んだそうです。
「われわれは『世界のホンダ』になるんだ!」と。そして、
「だから、世界に誇れるような仕事を積み重ねていこう!」と。
私たちは、ちっぽけな存在です。何も誇れるようなものはありません。
世界一どころか、小さな小さな存在にも対抗できるようなものではありません。
でも、世界一素晴らしいものを持っています。
わたしは、惨めなみすぼらしい何の取り柄もない土の器ですが、
その土の器に世界一の宝を入れているのです。
その世界一の宝とは、
神様からわたしに与えられた『福音』です。
福音とは、
わたしを愛しわたしが神様によって裁かれるわたしの罪のために
イエスキリストが身代わりに十字架にかかって死んでくださったことと、
死んで終わりではなく、死を討ち滅ぼして甦ってくださったことです。
そして
このことがわたしの罪のためであり、
このイエスキリストこそわたしの神であり、わたしの主であると信じ受け入れた福音です。
すなわち、
土の器に入れている宝 = 福音 = イエスキリストご自身 です。
ですから、
世界一になったら、どうするかでなく、
世界一だからどうすれば良いのかを考えるべきです。
長野の小さな会社の社員達は、世界一を目指している社長の後を従順についていったのです。
私たちは、その社長のような人間ではなく、
全知全能なる愛なる神様の導きに従順に従っていけばいいのです。
絶対に間違いはないのです。
後悔など絶対にすることはありません。
ですから神様に全生涯を委ねることができるのです。
世界一のものを持っている立場である、
わたしたちクリスチャンは、
どのように考え、
どのように行動するのかをいつも考えていたいものです。
【聖書の言葉】
(第2コリント 4章7節〜18節)
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
4:13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。