
もうすぐ2025年が始まります。
年初め用として手紙を書こうと思ったのですが、年の終わりに来年をどのように過ごしたいかを明確にする大切さを再確認するために大晦日に書きました。
『一年の計は元旦にあり・・・』
上の格言は、新しい一年を計画性を持って有意義に過ごすためには、年の初めに今年一年どのように過ごすか?またどのように過ごしたいかとじっくり考え目標をはっきりさせるという意味だと思います。
しかし私自身は、
大晦日という一年の最後の日に一年を振り返り
来るべき新しい年をどう過ごすかと計画することが大切かと思い以下の文章を書きます。
私がお便りを書く目的は、神様の素晴らしさ、神様の恵み深さ、神様の真実な愛 などを証しし共に神様の愛と恵みを共有したいからです。
しかし書いていると、神様より読んでくださる方々を意識しすぎることが多くあります。
確かに、わたしは聖書から神様のメッセージを語りたいと強く思っています。
でも、このようなお便りを私が書くのは、
ぽんこつなクリスチャンである私の日常生活の失敗や不信仰を正直に書く「つぶやき」を通して神様の素晴らしさを証しし共有したいというのがスタートです。
ですから、その立場をもう一度はっきりさせたいと思っています。
初心に戻ろうと思います。
いろいろなお便りを書きながら、どうしたらいいのか悩んだり、書きたいけれども書けないというジレンマに陥ることがよくありました。
でも、いつも悩むときは、いいかっこうをしようとしたり、いい文章を書こうとしていた時でした。
でも、このお便りは、愚かで弱くてどうしようない「ぽんこつクリスチャンのつぶやき」を通して神様の素晴らしさを証ししたいという強い思いから始まったお便り(つぶやき日記)です。
ですから、私からみたらいくらでも誇れるパウロが、「もし誇るならわたしは自分の弱さを誇ります。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」と宣言しました。
知らず知らずうちに、わたしは自分を誇りたい、自分を高めたい、自分が良く思われたいという思いに占領されてしまいます。もちろん、自分なんか誇れるものは何もないと一番わかっているのに・・・です。
こんないろいろな思いで、お便りを書いていたのですが、
書けなくなったりするときは、
こんな自分が神様のことを書いてお便りを出しているということが偉そぶっていないかとか、
そんな資格が自分にあるのかとか思ってしまうときです。
今年も、数えきれないほどの失敗をし、不信仰で神様を悲しませるようなことがいっぱいありました。
でも、それ以上に、神様の真実な愛、信じられないよう神様の恵みをいっぱい味わうことができました。
私たちは神によって命を与えられていながら背き逆らっている罪人であり、
神を信じて従おうとしていてもなお弱さがあり、すぐに不信仰、疑いに陥ってしまいます。
だから私たちの罪に対して神の怒りが私たちに向けられても仕方がないのですが、
しかし神は罪人である私たちに対して怒りをくだすのではなくて、むしろ愛して下さいました。
その愛のゆえに、私たちが罪に支配され、そのために死の力にも支配されてしまっていることを悲しんで下さり、私たちを罪と死から救い出すために、
独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。
主イエスは父なる神の愛のみ心に従ってこの世を歩み、
ヨハネの福音書の3章16節にあるように「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神のみ心を告げ知らせ、苦しめ、悲しませ、絶望させている死の力に対して激しい憤りをもって戦いを挑んで下さったのです。
主イエスの怒りに込められたエネルギーは、私たちを愛し、大切に思い、救ってくださろうとしている神の愛のエネルギーです。
私たちを心から愛して下さっている神のエネルギーが、死のエネルギーに勝利したことによって、ラザロの復活の奇跡が起ったのです。
しかし神は今も、罪人である私たちに対してではなく、私たちを捕え、苦しめ、悲しみ、絶望に引きずり込んでいる死の力に対して激しく憤っておられ、
その怒りをもって死の力と戦い、勝利して下さるのです。
ヨハネ福音書11章は私たちにそのことを告げています。
神が私たちへの愛に基づく怒りのエネルギーによって死の力に勝利して下さり、私たちを悲しみ、絶望から解放し、新しく生かして下さるのです。
ラザロの復活の出来事は、今不安や恐れの中にいる私たちにこのことを示し、希望を与えるのです。
心に憤りを覚えてラザロの墓に来られた主イエスは、墓を塞いでいる石を「取りのけなさい」とおっしゃいました。
墓を塞いでいる石は、ラザロを死の支配下に閉じ込めている石です。
死の力の支配を象徴する石です。
それを取りのけることによって、主イエスはいよいよ死の力と直接対峙し、戦われるのです。
しかしラザロの姉妹であるマルタは、「主よ、もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。
これが私たちの知っている現実であり、人間の常識です。
死に支配された人間は墓の中で腐敗し、朽ちていくしかない、それが、死の支配の前になすすべのない人間の現実認識なのです。
しかし主イエスはそこで、
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光が見る。とわたしは言ったではありませんか」とおっしゃいました。
「あなたは神の栄光を見る」と主イエスは既に語っておられたのです。
それは「あなたの兄弟は復活する」という宣言と、
それに続く25節の「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」というお言葉の語っておられました。
信じるならあなたは神の栄光を見る
しかしそこには、「もしあなたが信じるなら」という言葉があります。
神の愛が死の力に勝利し、神の栄光が示されるのを見ることは、信じることによってこそ可能となるのです。
信じることなしには、神の栄光を見ることはできません。
そして信じるとは、まだ目に見える現実となっていないことを信じることです。
このヨハネの福音書の20章29節に、
「見ずに信じる者は、幸いです」という主イエスのお言葉がありますが、神の私たちへの愛が死の力に打ち勝つのを見ることができるのは、それをまだ見ていなくても信じて歩むことによってなのです。
つまり私たちは、神の栄光を見たから信じるのではなくて、信じて歩むことの中で神の栄光を見るのです。
主イエスが今私たちに求めておられるのもまさにこのことです。
私たちに主イエス・キリストは今、
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると、わたし言ったではないか(ヨハネ11:40)」と語りかけておられます。
このみ言葉に励まされて私たちは、神が今、私たちへの愛のゆえに、恐れと不安を覚えて悲しんでいる私たちのために涙を流し、憤りをもって死の力と戦い、それを打ち破って新しく生かして下さるという救いを信じて歩むことができるのです。
その歩みの中で私たちも、神の愛の勝利と栄光を見ることができるのです。
主イエスの十字架の死と復活によって
私たちはそのように、まだ見えていない救いを信じて生きることができます。
なぜなら私たちは、この主イエスのお言葉が、単なる口先だけの安請け合いではなかったことを知っているからです。
主イエス・キリストは、私たちを支配し、恐れと不安を与えている死の力と実際に戦って下さいました。
その戦いにご自分の命をささげて下さったのです。
死の力との戦いにおいてご自身が苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。
神の独り子である主イエスが私たち罪人のために十字架にかかって死んで下さったのです。
その主イエスを父なる神は死の力の支配から解放し、復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。
それによって、私たちの罪の赦し、死の支配からの解放、新しい命、復活の命の約束という救いが実現したのです。
あなたが信仰を働かせないなら、あなたは神の栄光を何も見ることができません。
しかし、あなたが神を信じる信仰を働かせるなら、『あなたは神様の栄光を見る』ことができるのです。
2024年の今年一年
あなたは神様を信じて、どれくらいの 『神の栄光』を見たでしょうか?
来年こそは、天に場所を備え、もうすぐわたしたちを迎えに来られるイエスキリストを待ち望みつつ一年を過ごしたいと思います。
すべてのことを、不信仰を働かせる機会にするのではなく、
すべてのときに信仰を働かせ、『神の栄光を見る』機会にしたい!
これが、もうすぐ始まろうとしている来年一年のわたしの目標です。
来年も、どうかよろしくお願いいたします。
2024年12月31日