ある人が、別れるときに『さよなら』と言わないでくださいと言いました。
それは、これが最後でもう会えないような気がするからだそうです。
『またね』とか『今度また会いましょう』といってほしいようです。
歌の歌詞に、「さよならは、別れの言葉じゃなくて再び逢うまでの遠い約束・・・」というのがあります。
たしかに「もう会えないというさよなら」は悲しい言葉です。
しかし、「また会うことができるというのは」素晴らしいことです。
死を直前にしたお父さんが、3人の息子を枕もとに呼んで
長男に、いろいろなことを話して、最後に「おやすみ」と言いました。
次男に、いろいろなことを話して、最後に「おやすみ」と言いました。
三男に、いろいろなことを話して、最後に「おやすみ」と言ったのではなく、『さよなら』と言って涙を流しました。三男は、なぜ自分だけ別れの言葉が違うのかわからずに尋ねました。
すると、父親は、三男に説明しました。
長男と次男は、イエスキリストを救い主と受け入れ、福音を信じて救われているので、また天国で会える、だからしばしの別れだから、「おやすみ」と言える。
でも、三男のおまえは、福音を信じていない、
神様を信じていない。
だから「おやすみ」でなく、悲しい苦しい「さよなら」なんだ。と言いました。
そして、息絶え絶えのなかで三男に福音をひっしで話しました。
そして、イエスキリストを信じて救われてほしいと願いました。
三男も今まで何回も何回も聞いてきた福音が、父親が死ぬ間際に切実なものとして真剣に考え、ついには、イエスキリストをこころから救い主として信じました。
すると、父親は、最後に
三男に「おやすみ。また会える!」と言って息を引き取りました。
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
ヨハネの福音書 3章16節
『別れ』という言葉の中に何か物悲しさを感じます。
そしてそれが『永遠の別れ』であるなら なおさらです。
そしてその永遠の別れの相手が永遠の恐ろしい裁きの場所に行くことを知っているなら
私たちは我慢できない苦しみと悲しみしかありません。
それにくらべて、『永遠の別れではなくまたまみえる喜びの別れ』は比べることが出来ません。
ある離婚した後でクリスチャンになった婦人が言いました、
「夫からは言葉で言い表すことが出来ない苦労と苦しみを与えられました。
あの人だけは救われて欲しくありません。」と。
悲しい言葉ですが、それほど大変な苦しみと悲しみを与えられたのでしょう。
少し考えて私は言いました。
「だったら余計に、元ご主人がイエスキリストを信じて救われることを願いましょう。」と。
「なぜなら、救われたクリスチャンは、栄光の姿に変えられ天国で互いに真実な愛で(コリント人への手紙 第一 13章4~7節)
愛しあうことが出来ます。そしてあなたの内にある怒りや許せない心も全て真実な愛に変えられているので互いに愛しあうことが出来ます。」と。
コリント人への手紙 第一 13章4~7節
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。“
天国はなんと素晴らしいところでしょう。
私たちは、自分自身が天国に行ける喜びを待ち臨んでいます。しかし、天国で多くの栄光の姿に変えられているクリスチャン達との交わりはどんなに素晴らしいものでしょう。
もちろん一番素晴らしいのは、栄光の姿に変えられている私自身が
栄光の神様を100%完全に理解し、
そして100%の完全な礼拝を捧げることができることです。
栄光の姿に変えられ天でイエス様とまみえる希望と多くのクリスチャンと共に神様を賛美礼拝する希望はどれだけ素晴らしいものでしょう。
イエス様が地上再臨されるという聖書の預言のほとんどが成就しています。
ということは地上再臨の前に起こる空中再臨(空中まで私たちを迎えに来られ栄光の姿に変えられてイエス様とまみえる)は、もうすでに成就していても早すぎるということはなかったのです。
ということは、今日、以下の聖書の御言葉が成就するかもわかりません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
(第一テサロニケ4章16節〜18節)
救われたクリスチャンとまみえることができる。
そして栄光の姿に変えられた救われたクリスチャンたちとともにイエスキリストとまみえることができるとはこんな素晴らしいことはありません。