その夢とは、小学生に算数を教える先生になりたいということであった。
その人はずっと算数・数学が得意であったらしい。
そして、何よりも算数が好きで好きでたまらないとのこと。
だから子供に算数の点数をあげるような技術を教えるのではなく、
自分がそうであるように、
子供に算数の楽しさを知ってもらって算数を好きになってほしいのだそうである。
私は算数が好きではなかった。
算数を勉強することにどんな意味があるのかと疑問をいつも持っていた。
だから小さい時に、
算数の楽しさ面白さを教えてもらっていたらと思うと残念でたまらない。
算数の楽しさを熱く熱く話しをするその人の話しを聞きながら、
私は神様を喜びと感謝で満ちあふれるほど
熱く話しをしているだろうかと最近の自分自身を振り返った。
確かに、神様がおられることをしっかり説明するように
話しをすることはできると思う。
イエスキリストの十字架の意味についても
説明することができると思う。
イエスキリストの死後三日目の復活についても
順序だてて説明することはできると変な自信すら持っている。
そして色々な反論に対しても、
それなりに説明することはできると思っている。
でも、言葉をただ並べるだけの説明ではなく、
心からの生きた言葉で
まことの生きておられる神様を証しができているだろうか。
知識として頭でわかっている神様ではなく、
私を愛して、
私のために十字架で死んでくださり
私のためによみがえって
今ともに生きているイエスキリストを、
熱く喜びと感謝で満ちあふれて証しできているだろうか。
救われる資格のない私を救いに導いてくださった神様の恵みと、
愛されるはずのない私を愛してくださった神様の愛をもう一度思い出そう。
救われた時の喜びと感動を
思い出すために初心に戻りたいと思った。
そして、算数を楽しくわかりやすく教えたいと言っていた
青年のように私も神様をわかりやすく楽しく証ししたいと思った。
そして、わかりやすく証しするためにも、
自分自身がもっと神様と深く交わり、
神様の愛と恵みをもっと深く知りたいと思わされました。