先日、海岸を散歩してお弁当をみんなで食べるというレクリエーションがありました。
案外、歩く距離が長くて暑いし大変だったのですが、
海岸はあんがい風があってさわやかでいい気分を味わうことが出来ました。
地域活動活動支援センターの女性職員が作ったお弁当は、
豪華でボリュームもあって最高のものでした。
(私は料理はしませんでしたが、一生懸命盛り付けをしました。
おにぎりは作りませんでしたが、ご飯を盛って美味しいふりかけを豪華にふりました。)
そして、海岸でみんなが海に向って横一列にコンクリートの階段に座って美味しいお弁当を食べることができました。
対面にならず横一列に座ったおかげで、みんな緊張せずに、横の人と
気軽にいろいろな話しをしすることができたのでとても有意義な時間でした。
久しぶりにゆったりとした時間をみんなで過ごすことが出来たのが良かったと思いました。
それに、飛んできたハトにある人が食べるものを少しやったら、
それからいっぱいのハトが飛んできて大変なことになったのですが、
みんなでキャァキャァ言いながら、
食べ物を独り占めするハトや、
気が弱くてなかなか食べさしてもらえないハトなどの観察をしながら楽しい時を過ごせました。
そのときに、以前にも同じような質問をした人が、私にこう言いました。
「ハトと人間とは、どちらが幸せなんでしょう?」と。
その人は、ときどき深い意味のある質問をして、私を困らせるのですが、いろいろと深いことを考えさせてくれます。
そして、どのように答えようかと悩んだ末に、
「人間は、喜ぶことができるが、
ハトは、欲望を満たすことが出来ても喜ぶという感情はないのかなぁ。」と答えたのですが、
あまりいい答えになっていないと感じていると、その人が、「わかった。」と言いました。
そして、続けて自分自身で答えがわかって、
すごく納得したかのようにこう付け加えました。
「人間は、感動することができるということか。」と。
そのとき、私自身も「なるほど」と教えられました。
今から40年以上前に、『三無主義』という言葉が流行りました。
それは、しらけ世代とも言われ、
「無気力」「無関心」「無責任」の若者気質をさす言葉でした。
その後、それに「無感動」を加えて、『四無主義』とも言われました。
ずっと昔のことで懐かしいと思う方もいるかもしれません。
でも、それは大昔のことで今とは関係のないことでしょうか。
今も多くの人は、三無主義に陥っています。
そして、「無目的」も付け加えることができると思います。
すなわち、ゴールとなる「目的」が見えないのです。
自分がどこに向っているのか、
どこに向かおうとしているのか、がわからなければ
「気力」も「関心」も「責任」も持てるはずがありません。
そして、先ほどの「人」と「動物」の違いは、
『人間は感動することができる』ということであるなら、
感動する対象がないということは、「人」であるといえないということです。
私たち人間が感動することができることとは何でしょう。
私自身が神様の愛の対象として創造され、
神様を褒め称え礼拝する目的のために生かされ、
神様の愛と恵みのうちを歩むことができるという『神様の愛』しか、
私たちが本当に心から感動できるものはありません。
神様の愛の事実として、
イエスキリストは、
私たちの罪の刑罰の身代わりとなって十字架につき尊きいのちを捨ててくださいました。
神の愛は、イエスキリストの十字架で明らかにされています。
私たちが感動するものは、
お金や地位や名声ではありません。
イエスキリストの十字架で示された神様の愛だけです。
◉ヨハネの福音書 3章16節◉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。