『主よ。あなたは私を探り私を知っておられます』私を知り尽す神の愛

『主よ。あなたは私を探り私を知っておられます』私を知り尽す神の愛

詩篇139篇1節から6節

“主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。”

 

神様は私を知り尽くしておられる。

私は愚かな人間なので、

他の人にわたしのことを知られたいと思うところと

わたしのことを知られたくないと思う二面があります。

 

それは、わたしの嫌な部分で人に隠したいと思っている部分と、

人から褒めてもらえるような人として知ってほしいと思っている部分です。

 

例えば、知られたくなくて隠しておきたいところとは

わたしの嫌な性格とか自分中心で、人より自分さえよければいいと思ってしまうような人に知られたくない隠したい部分などです。

知っておいてほしいところとは

例えば、教会の前にゴミがいっぱいあったとします。そこでわたしが長い時間をかけて、綺麗に掃除をしましまた。

誰も見ていません。誰かがそのことを知ってほめてほしいと思うようなところです。

いいことをして人からほめてもらったり賞賛を受けたいと思ってしまうところです。

 

私が『知られたくない』とか『知ってほしい』という『知る』とはうわべだけを見て『知る』という不完全な『知る』です。

 

しかしこの詩篇139篇の『知る』といという言語は、

上部だけでなく内側も見られて『完全に知る』という意味です。

ここでいう『知る』は神様にしか使うことができません。

 

アダムとエバの罪により都合の悪いところは隠していく罪の歴史が始まる

最初の人であるアダムとエバには、最初隠したいと思うところはありませんでした。

知られて困ることはなかったのです。

しかしアダムとエバが罪を犯し、神の前から身を隠しました。

そして都合の悪いところは隠していく罪の歴史が始まったのです。

 

全知全能の神様が全てを知っておられるということは、恐ろしいことではないでしょうか。

なぜなら

どんな小さな罪もゆるすことが出来ない『義なる神様』がおられるということは、恐ろしいことではないでしょうか。

 

そして

義なる神様が、罪を裁かれるとは恐ろしいことです。

神様が私の全てのことを知っておられるということは恐ろしいことではなく感謝なことです。

先の詩篇139篇の御言葉は、

神様が 『わたしの全てを知っておられる』ということがどんなに素晴らしいことかと賛美しています。

全知全能の正しい義なる神様が、わたしの全てを知っておられ、

どんな小さな罪も見過ごすことなく裁かれる神様が、わたしの全てを知っておられるということが

恐ろしいことではなく、なぜ感謝なことなのでしょうか。

 

それは、イエスキリストの十字架を通して神様を見るか、

イエスキリストの十字架を通さずに神様を見るかで違ってきます。

イエスキリストを通さずに神様を見ると私の罪全てを知っておられ、

罪を容赦なく裁かれる神様ほど恐ろしいことはありません。

 

『神様にある義』とは、『我』の上に『神の子羊であるイエスキリスト』を置く(信じる)こと

『義』という漢字をじっくり見て考えてください。

『義』という漢字を上と下で分けると、『我』の上に『羊』が乗っているように見えます。

私の罪の刑罰全てを背負って十字架で死に甦ってくださった神の子羊であるイエスキリストを

私が信仰で私の主であり救い主であると信じるなら 

私は神様の目から見て 『義なるもの(全き正しいもの)』と見なされるのです。

神様の目から見ると罪汚れた私は罪しか見えない罪人です。

しかし、イエスキリストを信じたわたしは、イエスキリストのゆえに『義』と見なされるのです。

神様は、イエスキリストの十字架を通してを見てくださるのです。

そしては、イエスキリストの十字架を通して神様を見ることができるのです。

 

神様の『怒り』『裁き』『呪い』を受けるしかなかったわたしが

イエスキリストを信じた信仰によって『義なるもの』とされ、神様の『怒り』『裁き』『呪い』ではなく

神様の『愛』『恵み』『祝福』をあますところなく受け取ることができるのです。

 

ですから詩篇139篇1節から6節は、

わたしの罪全てとわたしの弱さや愚かさの全てを知っておられる神様がわたしを『知ってくださっている』ということが感謝であり喜びなのです。

  

むかし聞いた話しをお話しします。

 

何度も何度も罪を犯して刑務所に入っていた前科者がいました。

でも、本人も今度こそは絶対に悪いことはしない、真面目に生きると心に決めました。

でも、なかなか勤め先が見つかりませんでした。

世話してくれる人が言いました。

今度、また悪いことをしたらもう二度とお前を相手にしない。

だから今度こそ死んだ気で気持ちを入れ替えて頑張れと励ました。

そして、あるお蕎麦屋さんのところで雇ってくれることになりました。

本当に改心して頑張ろうと思っていた前科者は、朝早くから夜遅くまで一生懸命に働きました。

どんなことがあっても店の主人に可愛がってもらえるように頑張ろうと必死でした。

ですから、店の主人も奥さんも前科者が頑張って一生懸命なのを見て喜んで、前科者に本当に良くしてくれました。

店の主人と奥さんが前科者の自分を可愛がってくれて信頼してくれることが最初嬉しくて、もっともっと一生懸命頑張りました。

でも、それが一年位たつと・・・

前科者はだんだんしんどくなってきました。

認められるために、愛してもらうために頑張りました。

でも、しんどくなって来たのです。

頑張れば頑張るほど、店の主人達が自分のことを愛してくれればくれるほど、しんどくなって来たのです。

いつばれるだろう・・・自分が前科者だと店の主人達が知ったら・・・自分のことなど愛してくれないだろうと・・・

そしてついに、もうしんどくて我慢できなくなり、夜に店の主人と奥さんに話しをしようと思って部屋を訪ねました。

そして全部正直に話しをして店を辞めさせてもらおうと思いました。

しかし、なかなか部屋に入れずに部屋の外で躊躇していました。

すると、部屋の中でご主人と奥さんが話しをしているのが聞こえました。

「あいつは本当に朝早くから夜遅くまで一生懸命に働いてくれている。だから今度出店する店を任せてみようかと思っているという話しでした。

奥さんも「それはいい」と嬉しそうに言ってくれていました。嬉しいのですが、余計に心が苦しくなって部屋に入れずにいました。

すると、次に言葉が聞こえて来たのです。

「あいつが何度も何度も刑務所に入っていた前科者だとは信じられない・・・」という言葉でした。

前科者はびっくりしました。

ご主人も奥さんも自分にはいくつかの前科があるということを最初から知っていたのです。

そんな自分と知りながら自分を認めてくれたのです。また支店を任せようとさえ言ってくれている。

 

前科者は嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。過去を知らずに愛してくれているのではなく、過去の前科全てを知って自分を愛してくれているからです。

もう前科がバレたらどうしょうと、ビクビクする必要はないのです。

隠す必要もないのです。

知られないように必死で努力するのではなく、全てを知って愛してくれているご主人と奥さんのために喜んで働くことができるのです。

それからも、その前科者は一生懸命働きました。

それは苦しいことではなく嬉しいことだったのです。

 

わたし達も、私たちの全てを知って愛してくださる神様の前で背伸びをして神様によく見られようとかする必要はありません。

神様『イエスキリストの十字架』を通して私たちを見てくださいます。

私たち『イエスキリストの十字架』を通して神様を見ることができるのです。

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