【伝道メッセージ】奇跡を疑うあなたへ。創造の神を前提にすると見える景色が変わる

この記事の目次

奇跡を疑うあなたへ。創造の神を前提にすると見える景色が変わる

奇跡は可能か?

「聖書の奇跡なんて信じられない。」
そう思う人が多いのは自然なことです。
紅海が割れる。嵐が静まる。盲人の目が開く。少しのパンと魚で大勢が満たされる。預言が成就する。十字架で死んで葬られたイエスが復活する。
どれも、私たちの日常の“常識”から見ると飛びすぎています。

けれど、ここで一つ大事なポイントがあります。
それは「奇跡が可能か?」という問いは、実は「誰がそれを行うのか?」という問いとセットだ、ということです。


どうして奇跡は信じにくいのか

人が自然法則を破るなら、確かに不自然

もし、ただの人間が「海よ割れ」と言って海を割ったなら。
もし、ただの人間が「嵐よ静まれ」と命令して風と波を止めたなら。
それは、疑われて当然です。
人には限界があり、自然法則を根底から支配する力はありません。

しかし「誰が行ったか」で話が変わる

では、もしその出来事が「世界を造った方」によるものだとしたらどうでしょう。
たとえるなら、スマホを作った人は、設定や機能を理解しています。
外から見て「不思議」に見えることも、作り手にとっては“仕様の範囲”です。
同じように、自然界の“仕組み”を造った方が、自然界に働きかけるなら。
それは「無理やり法則を壊す」のではなく、「法則の上に立つ主権」として理解できます。


視点を変える:「人の奇跡」ではなく「創造主の御業」

「光よあれ」で始まる神のスケール

聖書の最初は、いきなりこう始まります。
「光よあれ。」
この言葉一つで世界が始まるなら、スケールが違います。
紅海を分けるより、そもそも海そのものを造るほうが“桁違い”です。
嵐を静めるより、風の仕組みを定めるほうが“根っこ”です。
癒やすより、生命という神秘を与えるほうが“起点”です。

神にとって奇跡は“非常識”ではなく“主権”

私たちが「奇跡」と呼ぶのは、私たちの側から見て“起こりえない”ことです。
でも、創造主なる神にとっては、「不可能を無理にねじ曲げる」ことではありません。
神はすべての始まりを創られた“原因”であり、世界はその“結果”として存在している。
この前提に立つと、奇跡は「変な話」ではなく、「神が支配しておられる」というメッセージになります。


「原因のない結果はない」—世界と私たちの出どころ

結果があるなら原因がある

原因のない結果は存在しません。
家があるなら建てた人がいる。
絵があるなら描いた人がいる。
音楽があるなら作曲者がいる。
では、この世界という“結果”には、どんな“原因”があるのでしょうか。

人間の心・魂・良心という“結果”

人間には、物質だけでは説明しきれないものがあります。
喜び、悲しみ、愛、罪悪感、祈り、意味を求める心。
そして「良心の働き」があります。
悪いことをしたとき、誰も見ていなくても責められる思いが湧く。
もしすべてが偶然の産物で、ただ生存競争の結果にすぎないなら、
この「心の痛み」や「正しさへの渇き」はどこから来たのでしょう。


進化論は科学?創造論は夢?その前提を点検する

進化論が科学の領域で多く語られてきたことは事実です。
ただ、ここで冷静に確認したいのは、過去の出来事を「完全に再現して観察できない」という点です。
過去へさかのぼると、どうしても仮説が必要になります。
そして仮説には、出発点の前提が入ります。
「神はいないほうが都合が良い」という前提が、知らないうちに混ざることもあります。

もちろん、科学の研究は尊いです。
けれど「神はいない」と断言すること自体は、科学というより世界観の選択です。
聖書は別の前提を置きます。
「神がおられ、目的と意図をもって世界を造られた。」
そのとき、人間は“偶然の副産物”ではなく、“愛の対象として造られた存在”になります。


良心と祈り—人の内側にある「神を求める窓」

罪を責める声はどこから

良心は、私たちの中にある“裁判官”のようです。
「それは違う。」
「それは傷つけた。」
「謝るべきだ。」
この声は、ときに苦しい。
でも同時に、私たちが“ただの物”ではなく、“意味を持つ存在”であることを示します。

苦しみの瞬間に出る「神様、助けて」

さらに興味深いのは、普段は神を意識しない人でも、
本当に苦しいとき、とっさに「神様、助けてください」と口にすることがある点です。
それは、人の内側に「神を求める窓」があることを感じさせます。
聖書は言います。神は人を、神を求める者として造られた。
だから私たちは、どこかで“帰る先”を探してしまうのです。


聖書の奇跡の中心:十字架と復活

聖書の奇跡は、単なる不思議ショーではありません。
目的があります。
それは「神が生きておられ、救うお方である」ことを示すためです。
そして中心は、何よりも十字架と復活です。

もし復活が本当なら。
世界は“閉じた箱”ではありません。
神が介入できる世界であり、死が終点ではない世界になります。
逆に復活がなければ、聖書のメッセージは骨組みだけになります。
だからこそ復活は「最重要の奇跡」なのです。


今日の招き:奇跡を裁く前に、創造主に向き直る

奇跡を信じるかどうかで悩むとき、
まず「人ができるかどうか」だけで考えると、行き止まりになります。
でも「創造主なる神がおられるか」という問いに向き直すと、景色が変わります。

神が原因であり、世界が結果であるなら。
神に不可能はありません。
私たちが“信じられない”と思うことが、神には“当たり前”として起こりえます。

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