ヨセフの物語①祝福の夢のあとに穴へ。けれど主は“手を離さない。(創世記37〜39章)

この記事の目次

暗闇の中での信頼と平安(牢や誤解の場面にも合う賛美!)

「安けさは川のごとく(It Is Well with My Soul)」
状況が整っているから平安なのではなく。
主が共におられるから平安。という告白がヨセフと重なります。

ヨセフの物語①(創世記37〜39章)祝福の夢のあとに穴へ。けれど主は“手を離さない”。

はじめに:主の導きは「順風満帆」ではなく「離さない」

ヨセフの物語を読むと。最初はびっくりします。
祝福の夢を見た直後に。穴へ。奴隷へ。濡れ衣へ。牢へ。
まるで階段を転げ落ちるように。どんどん下っていくからです。

でも聖書は。もう一つのことを静かに書き続けます。
「主が共におられた。」
これがヨセフ物語の空気です。
私たちの目には「終わった」と見える場所が。神の目には「始まりの場所」になる。
ここをつかむと。人生の見え方が変わります。

たとえるなら。映画で主人公が暗い地下へ連れて行かれる場面です。
観客は不安になります。
しかし監督は知っています。ここから物語が動き出すことを。
神様の導きも。時にこういう形を取ります。

H2 1.創世記37章:ねたみが生む穴。しかし神の計画は落ちない

H3 1)父の愛。兄たちのねたみ。夢が火種になる

ヨセフはヤコブに愛されていました。
特別な衣を着せてもらうほどでした。
その上ヨセフは夢を見ます。
束が自分の束にお辞儀する夢。
太陽と月と十一の星が自分にひれ伏す夢。

ヨセフは若く。話し方もまだ未熟だったかもしれません。
兄たちは「生意気だ」と感じ。ねたみの火が燃え上がります。
ねたみは。相手の成功が憎くなるだけでなく。相手の存在そのものが邪魔になります。
そしてねたみは。人を残酷にします。

H3 2)あの日の野原。兄たちの視線。穴の底の暗さ

ある日。ヨセフは兄たちのところへ行かされます。
遠くから弟が来るのが見えた時。兄たちは言います。
「夢見る者が来た。」

ここには冷たい空気があります。
近づいてくる足音が。ヨセフには嬉しい音だったかもしれません。
「兄さんたちに会える。」
でも兄たちの心には。刃がありました。

彼らはヨセフを捕らえ。衣をはぎ取り。穴に投げ込みます。
穴は空っぽで。水もない。
ただ暗い。
ただ怖い。
そして声が届かない。

ここで私たちは忘れてはいけません。
ヨセフの痛みは。本物です。
家族に拒まれる痛み。
助けを求めても届かない痛み。
「なぜ僕が」と叫びたくなる痛み。

しかし同時に。ここで神の計画が落ちたわけではありません。
兄たちは罪を犯しました。
神はそれを良しとしません。
けれど神は。人の罪に計画を止めさせません。

たとえるなら。絡まった糸です。
人は「もう終わった」と投げ捨てます。
でも神は糸の端を握っています。
引けばほどける方向へ。少しずつ。少しずつ。
穴の底でも。糸は切れていないのです。

H3 3)売られるヨセフ。だが神は「運ぶ」

兄たちは結局。ヨセフを奴隷として売ります。
ヨセフは引かれていきます。
砂の道。遠ざかる故郷。
「父はどうなるのか。」
「自分はどうなるのか。」

それでも神は。ヨセフをただ捨てられた者にしません。
神は“運びます”。
人の悪意さえ。神は用いて。必要な場所へ運ばせます。
ここが不思議で。ここが福音の入口です。

H2 2.創世記38章:ユダの失敗の章が挟まれる意味

H3 1)寄り道ではない。神は「歴史」も守る

38章は突然ユダの話になります。
ヨセフが消えたまま。別の場面になる。
読んでいると「え。今なぜここで?」となります。

でもこれには意味があります。
神の救いは。ヨセフ一人の成功物語ではないからです。
神は家族全体の歴史を扱い。救い主につながる道を守っておられます。

H3 2)人の破れが濃いほど。恵みが浮かび上がる

ユダは軽率で。責任を避け。結果として人を傷つけます。
そして「タマル」という女性の深い痛みが描かれます。
聖書はここで。人間の恥や汚れを隠しません。
むしろ照らします。

それは。神が「きれいな人だけ」ではなく。
「破れた人間の現実」の中に救いを進めていく方だからです。
ここが福音に似ています。

私たちは「立派になったら神に近づける」と思いがちです。
でも福音は逆です。
「破れているどうしようもない罪人のあなたのために。救い主が来られた。」
だから恵みは恵みなのです。

38章は。
「人が崩れても。神の約束は崩れない。」
という強いメッセージを持っています。

たとえるなら。舞台の上が混乱しても。
舞台裏では脚本が進み。照明が調整され。次の場面が準備される。
神は舞台裏で。歴史の糸を守っておられます。

H2 3.創世記39章:誘惑に勝つより先に「主が共におられる」

H3 1)奴隷の家で。ヨセフは“投げやり”にならなかった

ヨセフはエジプトで。ポティファルの家の奴隷になります。
普通なら心が荒れます。
「神なんてどこにいる。」
「もうどうでもいい。」
そうなっても不思議ではありません。

けれど聖書は繰り返します。
「主がヨセフと共におられた。」
その結果。ヨセフは任されるようになります。
小さな仕事を丁寧にする。
誠実にする。
誰も見ていない所でも手を抜かない。

神の導きは。派手な奇跡だけで進むのではありません。
日々の忠実という“小さなレール”の上を走ります。

H3 2)誘惑の場面。ヨセフは議論せず「逃げた」

次に来るのが誘惑です。
主人の妻が毎日のように誘います。
これは強い誘惑です。
孤独。若さ。環境。
全部がヨセフを揺らします。

でもヨセフは言います。
「どうして私はこの大きな悪を行い。神に罪を犯せようか。」
そして彼は議論で勝とうとしません。
逃げます。

ここに知恵があります。
信仰とは立ち向かう勇気」だけでなく。
「離れる勇気」でもあります。
罪は。近づけば飲み込まれます。
だから距離を取る
これは弱さではなく。守りです。

H3 3)正しくしても損をする。濡れ衣。牢。だが主は共におられる

しかし結果は厳しいです。
濡れ衣を着せられ。牢に入れられます。
正しくしても誤解される。
誠実でも損をする。
理不尽がある。

 

ここで信仰が試されます。
「神は本当に見ているのか。」
「正しく歩く意味はあるのか。」

でも聖書はまた言います。
牢の中でも。主がヨセフと共におられた。

神の共在は。
「楽になる保証」ではありません。
しかし。
「見捨てない保証」です。
暗闇の中でも。主はあなたのそばに立ち。道をつないでおられます。

H2 4.学ぶべきこと:穴。寄り道。濡れ衣。そこでも主は道をつなぐ

H3 1)神は“下り坂”でも導く

私たちは上り坂の時。神の導きを信じやすいです。
でも下り坂になると。「見捨てられた」と思いやすい。
ヨセフ物語は言います。
下り坂でも。主は共におられる。

H3 2)神は“罪の現実”の中でも救いを進める

兄たちのねたみ。
ユダの失敗。
ポティファルの妻の悪意。
どれも人間の罪です。
神は罪を良しとしません。
しかし神は。罪によって救いの計画を止めません。
むしろ最後には。罪の上に恵みを勝たせます。

H3 3)忠実は“目立たない場所”で鍛えられる

穴の底。
奴隷の家。
牢の中。
ここでの忠実が。次の扉を開きます。
あなたの今の場所が。目立たない場所でも。
主はそこであなたを形作っておられます。

H2 5.福音へ:ヨセフの影に、十字架と復活の主イエスが見える

ヨセフは。
正しいのに退けられ。
愛されるべき家で拒まれ。
濡れ衣で落とされます。

これは。救い主の影のようです。
主イエスも。
罪がないのに拒まれ。
偽りの訴えで裁かれ。
十字架につけられました。

しかし神は。
その十字架を「終わり」にしませんでした。
復活で。救いを完成させました。

つまり福音はこう言います。
「最悪の場所が。救いの始まりになった。」
私たちが「もう終わった」と思う場所でも。
神は「ここから始めよう」と言える方です。

だから今日。あなたが穴の中にいるなら。
遠回りの途中なら。
誤解されているなら。
こう祈れます。

「主よ。私は今。下っています。
でもあなたの手は離れていません。
十字架と復活の主に目を上げます。
どうか今日の忠実を守らせてください。」

結び:主は道をつなぐ。あなたを“運ぶ”

37章で穴。
38章で歴史の裏側。
39章で忠実と濡れ衣。
すべてに共通する結論は一つです。

神の導きは。上り坂だけではなく。下り坂でも働く。
そして主は。あなたを見捨てず。道をつなぎ。やがて必要な場所へ運んでくださる。

今日も主は言われます。
「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」
この約束に立って。
もう一歩礼拝者として歩き直していきましょう。

 

今日の2曲目の賛美曲です。

「あなたがともにおられるなら(主の臨在・神が共におられる・・・)」
「主が共に」という一点に焦点が合うので、ヨセフ37〜39章向きの賛美では?

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