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聖書通読 第5週4日目(木)出エジプト記9–10章/マタイ24章
「条件つきの従順から、礼拝の従順へ」
出エジプト記9–10章の災いとファラオの頑なさ、マタイ24章の終わりの時の教えから学びます。状況次第の従順から、主を第一にする礼拝の従順へ招かれる一日です。
「ここまでなら従うけれど、ここから先は無理です。」
そんな“条件つきの従順”が、私たちの心にそっと顔を出す日があります。
出エジプト9–10章/マタイ24章|揺れる時代に、心を主のことばへ結び直す
【出エジプト記9章】災いは進む。けれど主は“救いの道”を開く
災いが深まるほど、神の主権がはっきりする
9章では、家畜の疫病、腫れ物、雹(ひょう)の災いが起こります。
読みながら息をのむのは、災いがただの「力比べ」ではないことです。
神は、偶然でも気分でもなく、はっきり目的をもって語られます。
「あなたにわたしの力を示し、わたしの名が全地に宣べ伝えられるため」です。
ここで注目したいのは、雹の前に「警告」と「避難」が与えられている点です。
主はただ打つ方ではありません。逃げ道を示す方です。
つまり裁きの中にも、憐れみの扉が開いています。
学び:頑なさは、苦しみを長引かせる
ファラオは恐れ、罪を認めるような言葉も口にします。
しかし根は変わらず、また心を固くします。
状況が動いた時だけ「反省っぽい言葉」が出て、落ち着くと元に戻る。
この姿は、私たちにも起こりやすい弱さです。
神様が望んでおられること
神は、出来事の圧力で一時的に動く心ではなく、神に向き直る心を望まれます。
あなたは今、「降りてきた雹」だけを見ていますか。
それとも、その前に語られた神の声を聞いていますか。
【出エジプト記10章】闇の前に、悔い改めはあるか
いなごと闇。神は“降参の形”を問われる
10章では、いなごの災いが国を食い尽くし、続いて闇が国を覆います。
闇は特に象徴的です。目の前が見えないのは、ただ怖いだけではなく、進む方向も失わせます。
それでもファラオは「ここまでなら従う」という条件を出し続けます。
礼拝はしてよいが、家族は置け。家畜は置け。
つまり「全部は明け渡さない」という交渉です。
しかし神は、部分的な降参ではなく、礼拝者としての全面的な神様への立ち帰りを求められます。
神に従うとは、神を人生の“飾り”にすることではなく、中心に据えることです。
学び:心の闇は、外側の災いより危険
闇の災いの中で、「イスラエルの住む所には光があった」と記されます。
これは、神がえこひいきするという意味ではなく、神に属する者には道を照らす光がある、という福音の前触れのようにも見えます。
暗い時代でも、主はご自分の民を見失われません。
神様が望んでおられること(短く)
神は「少しだけ従う」ではなく、「神を主とする礼拝」を望んでおられます。
あなたの信仰は、条件付きになっていませんか。
「これだけは譲れない」と握っているものは何でしょうか。
【マタイ24章】終わりの話は、恐怖ではなく“目を覚ます愛”の言葉
しるしの列挙より、「惑わされるな」が中心
24章は終末について語られる長い章です。
戦争、飢饉、地震、迫害、偽預言者、愛の冷え、福音の前進。
情報量が多くて、読むと不安になる人もいます。
しかし、イエスが繰り返される命令は意外にシンプルです。
「惑わされないように気をつけなさい。」
つまり終末の話は、好奇心を満たすためではなく、信仰を守るための言葉です。
学び:主は“恐れさせる”ためでなく、“備えさせる”ために語られる
主人がいつ帰るか分からないなら、家を守る人は目を覚ましています。
それと同じように、主は私たちを怯えさせるのではなく、日常を整えさせるために語られます。
目を覚ましている信仰とは、特別な計算ができることではありません。
今日、主を愛し、隣人を愛し、与えられた務めを忠実にすることです。
神様が望んでおられること(短く)
神は、混乱の時代に流される心ではなく、主の言葉に立つ心を望んでおられます。
あなたは今、ニュースの波に心を奪われていますか。
それとも、主の約束に心を結び直していますか。
まとめ:暗くなるほど、光が必要になります
出エジプト9〜10章は、
頑なさがどれほど人を縛るかを見せます。
同時に、主が警告と逃れ道を備え、礼拝へ招いておられることも示します。
マタイ24章は、
終わりの話を通して、恐れではなく「目を覚ます愛」を私たちに注ぎます。
今日、主はこう願っておられます。
「条件つきの従順ではなく、わたしに信頼して歩みなさい。」
「暗い情報に飲まれず、わたしの言葉に心をつなぎ直しなさい。」
あなたの心を照らす光は、状況ではなく主ご自身です。
だから今日も、主の真実を握って一歩進みましょう。
