
この記事の目次
聖書通読 第5週1日目|出エジプト記3章・4章/マタイ21章
今日は「召し」「ためらい」「王の来訪」が一本の線でつながる日です。
神は、燃える柴の前でも、言い訳だらけの心の中でも、そしてエルサレムの通りでも、同じように語られます。
「わたしはあなたと共にいる。だから、わたしの道を歩きなさい。」と。
出エジプト記3章|燃える柴と召し
主の語りかけ
荒野で羊を追っていたモーセは、燃えるのに燃え尽きない柴を見ます。
そこで神はモーセを名指しで呼び、苦しむ民を救い出す計画を告げられます。
そして、神はご自身の名を示されます。
「わたしはある。わたしはいる。」という、変わらない主の存在です。
学べること
神の召しは、私たちが「準備万端」になってから来るとは限りません。
むしろ、普段の生活の途中で、突然光が差すように始まります。
また、神が最初に下さるのは、成功の保証というより「共にいる」という約束です。
私たちの土台は、能力ではなく主の臨在です。
神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私は、神の「共にいる」という約束より、自分の不安を大きく見ていないでしょうか。
主は、恐れを消す前に、共に歩くことを選んでほしいと願っておられます。
出エジプト記4章|言い訳のモーセと備えの主
ためらう心に、主は備えで答える
モーセは「信じてもらえない」「口が重い」「自分には無理だ」と不安を並べます。
けれど主は、叱って終わりにせず、しるしを与え、助け手としてアロンを備えられます。
神は、弱い器を用いるために、道具も仲間も整えてくださいます。
学べること
信仰の歩みは、いきなり強い人になることではありません。
「怖いけれど、従います」と言えるようになることです。
神の働きは、私たちの完璧さにかかっていません。
主は、足りなさを見捨てる理由にせず、用いる理由に変えてくださいます。
神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私は、できない理由を集めて止まっていないでしょうか。それとも、主に頼りつつ小さく踏み出しているでしょうか。
主が願っておられるのは、「完璧な私」より「従う私」です。
「行きます」と言える一歩を、主は待っておられます。
マタイ21章|王の入城と宮きよめ
王が来られると、価値観が揺さぶられる
イエスはロバに乗ってエルサレムに入城されます。
それは、力で支配する王ではなく、へりくだり、救う王としての到来です。
さらに主は宮をきよめ、「祈りの家」が商売の場になっていることを正されます。
神は外側の宗教より、実を結ぶ信仰を求められます。
学べること
信仰は、知識や形式だけでは育ちません。
神に向ける心が、実として生活に現れることが大切です。
主は私たちを責めるためではなく、祈りの場所へ戻すために整えてくださいます。
悔い改めとは、罰を恐れる行為ではなく、主のもとへ帰る道です。
神様が望んでおられること
ここでの問いはこれです。
私の心は、主のための「祈りの家」でしょうか。それとも、別のものが主役になっているでしょうか。
主は、私たちの内側をきよめ、実を結ぶ歩みに導きたいと願っておられます。
今日のまとめ|3章が一つの福音の線になる
出エジプト3章で主は「共にいる」と約束されます。
4章で主は「弱さに備えを与える」と示されます。
マタイ21章で主は「王として来て、祈りの家へ戻す」と宣言されます。
だから今日のワクワクはここです。
神は遠くで命令する方ではありません。
あなたの現場に来て、あなたの弱さを知り、あなたの心を整え、救いの道へ連れ出してくださる方です。
最後に、自分への小さな問いを一つだけ持って終わりましょう。
私は今日、主の「共にいる」に信頼して、どの場面で心を祈りの家に戻すでしょうか。
