【聖書通読第2週第5日】「イサクを捧げる日、神は備えていた。恐れが使命に変わる通読(創22–23/マタ10)」

 通読には、「今日はスイスイ読めそうな日」と「今日は深呼吸してページを開く日」があります。

創22–23/マタ10は、まさに後者です。試練、別れ、使命、そして迫害の予告。文字だけで重さが伝わってきて、心が少し身構えます。

けれど、ここで通読をやめない人は、いつも“決定的な光景”に立ち会います。暗転したスクリーンに、最初の一筋の光が差し込むように、重い章ほど神のまことが鮮やかに立ち上がってくるのです。

晴れの日には、傘のありがたみを忘れます。でも雨の日は違います。「傘がある」こと自体が救いになります。今日の箇所は、まさにその雨の日です。

私たちが「どうして…」と立ち尽くしそうな場面で、神は「わたしが備える」と語り、そして実際に備えられる。人の手が震えるほどの瞬間にこそ、神の手は確かに働きます。

だから、ページを開く前のその重さは、失望のサインではありません。むしろ“福音が生きた現実として見えてくる合図”です。

さあ、今日も「恐れが使命に変わる瞬間」を、いっしょに目撃しに行きましょう。


この記事の目次

今日のテーマ

「イサクを捧げる日、神は備えていた。恐れが使命に変わる通読(創22–23/マタ10)」

今日の通読は、三つの場面がひとつに結ばれます。
創22は「試される信仰」と「神の備え」。
創23は「別れ」と「約束を地面に刻む一歩」。
マタ10は「弟子として遣わされる使命」と「恐れを越える言葉」。

重いのに、読後は不思議と背筋が伸びます。

なぜなら、“私の力で頑張れ”ではなく、“神が備え、神が導き、神が用いてくださる”と神様が働いてくださるとわかるからです。


創世記22章 試練の山で「神が備える」が現実になる

「捧げよ」と言われたとき、心は止まる。でも神は止まっていない

創22章は、通読の中でも特に心臓がドキッとする章です。アブラハムは、約束の子イサクを「捧げよ」と命じられます。

ここでの怖さは、単に行為の大きさだけではありません。「神さま、あなたの約束はこの子から始まるんじゃなかったの?」という、約束そのものが揺れるように見える点です。

たとえるなら、契約して購入した家がやっと完成したのに、その引き渡しのときに「その権利すべてを無償で手放しなさい」と言われるようなものです。常識では考えられないことですが、神様の約束の子イサクが与えられたのに、そのイサクのいのちを捧げなさいということのほうがもちろん、心が「え?」となるのは当然です。アブラハムのこころは止まってしまったことでしょう。

でも創22章の核心はここです。私たちの心が止まっても神の計画は止まらないむしろ神は、最も深いところで「本物の土台」を整えておられるのです。

山に登る道は、信仰の筋トレではなく「信頼の再学習」

アブラハムが山へ向かう道は、いわゆる根性論の“修行”ではありません。神を信じるとは、「理解してから従う」ではなく、「その先が見えなくて、分からないままでも、神の絶対に身を預ける」ことだと教えられます。

よく、地図アプリで道案内をしていて「この細い道で合ってる?」と不安になる瞬間があります。けれど案内が正しければ、曲がった先でちゃんと大きい道に出るのです。

信仰も似ています。今の道幅が細く見えても、行き止まりのように思えても、神は先を知っておられます。

今日の章は、その“曲がった先に出る大きい祝福の道”が、神の備えとして待っていることを見せます。

「主が備える」──神は“必要のあと”ではなく“必要の前”に動いている

山の頂で、神は捧げものを備えておられました。アブラハムが何とか作り出すのではなく、神が用意していた。ここが福音の型です。

私たちは「足りないからと思って、何かを差し出して埋める」癖があります。でも神の救いは逆です。「神が備え、私たちは受け取って歩む」のです。

この「備え」は、やがて新約で決定的に開かれます。イエス・キリストこそ、神が備えられた救いです。罪の赦しも、神との和解も、私たちが作り出した条件ではなく、神が先に用意された恵みです。

創22章は、十字架の影が濃い章です。「神が備える」という言葉が、ただの美しい標語ではなく、歴史の中で実際に起きる救いの前触れとして響きます。

アブラハムが今まさにイサクをほふろうとしたとき、かみさまからの「待った!」がかかりました。

しかし、父なる神様が愛する御子イエスキリストを十字架で死に渡されたとき、「待った!」をかけることのできるものは誰もいなかったのです。

父なる神様の思いをわたしたちは完全に理解はできません。しかし、このアブラハムが息子イサクをささげようとしたときのつらさ苦しみは少しは理解できます。

このような愛でわたし達は神様から愛されているということをいつも覚えたいものです。

※ 以下の動画は、「父の涙」を作詞作曲した岩淵まことさんの「奥さんの証し」と「4:06~御夫婦二人の賛美」


創世記23章 別れの涙の中で、約束は「土地に刻まれる」

サラの死は、物語の終わりではなく「約束が現実に根を下ろす場面」

創23章は、サラの死と葬りです。ここで空気が一気に現実的になります。信仰の話をしていたのに、急に「死」と「埋葬」という、誰も避けられないテーマが来ます。でも通読は意地悪ではありません。ここで私たちに、「約束はふわふわした理想ではなく、涙の地面に降りてくる」と教えられます。

アブラハムは、泣きます。悲しみを隠しません。その上で、葬りの場所を求め、きちんと代価を払い、確かな土地を得ます。これがとても大事です。約束は“心の中だけの慰め”ではなく、現実の歩みに足場を作ります。

「信仰=空中戦」ではなく「信仰=地に足のついた一歩」

葬りの土地を買う場面は、信仰の実務のように見えます。でも、これは霊的に深い一歩です。たとえるなら、未来のために小さな苗を植えるようなものです。今日すぐ大木にはならない。でも確実に「根」が張り始める。

アブラハムは、サラを葬ることで「この地に神の約束が根を下ろす」ことを、静かに始めています。

私たちも同じです。祈って、みことばに励まされても、現実の一歩が必要になる日があります。家族のこと、健康、働き、教会、将来。そこで信仰は、“気持ち”だけでなく、“選択”として刻まれていきます。創23章は、その尊い地味さを讃えている章です。


マタイ10章 恐れを越えて遣わされる。弟子の使命は「主の言葉」に支えられる

主は弟子を“完璧にしてから”ではなく“今のまま”遣わされる

マタイ10章では、主が弟子たちを遣わされます。面白いのは、弟子たちが全員ピカピカの優等生ではないことです。弱さも、未熟さも、揺れもある。それでも主は「行きなさい」と言われます。

これは、運転免許で言うなら、いきなり高速道路に放り出す話ではありません。主は「道」も「言葉」も「必要」も与えながら遣わされます。弟子の旅は、装備ゼロの無茶な冒険ではなく、主の備えに乗って進む旅です。

恐れの正体は「失うこと」でも、主は「いのちを得る道」を示す

マタイ10章には、迫害や拒絶、恐れについての言葉が並びます。読むと少し緊張します。でも、ここが今日の創22と深くつながります。

創22でアブラハムが直面したのは、「最も大切なものを失うかもしれない恐れ」でした。マタ10で弟子が直面するのも、形は違っても同じ根っこです。「この道を歩むと、失うものがあるかもしれない」という恐れです。

けれど主は、恐れを否定して「感じるな」とは言いません。恐れの中で「誰を恐れるべきか」「何を土台に立つか」を教えます。つまり、恐れを“使命に変える”導きです。雨の日に傘を持つように、恐れの日こそ「主の言葉」という備えを持って歩くことができるのです。そのとき、人は恐れに飲まれず、恐れの上に立てるようになります。

使命は重荷ではなく「福音を運ぶ喜び」

マタ10は、弟子が福音を運ぶ章です。ここで忘れたくないのは、使命は“罰ゲーム”ではなく“喜びの配達”だということです。

たとえるなら、暗い部屋に明かりのスイッチがあると知っている人が、その場所を教えるようなものです。「ここだよ」と言えること自体が、すでに恵みです。

そして、この使命の中心にも十字架と復活があります。私たちの言葉が人を救うのではありません。救い主が救うのです。

ただ、主は私たちを「土の器」として用い、宝を運ばせてくださいます。


旧約と新約の橋渡し 「神が備える」から「主が遣わす」へ

創22の備えは、十字架へ。マタ10の遣わしは、復活後の宣教へつながる

創22で、神は捧げものを備えました。これは福音の方向を指しています。神が備えた救いが、やがてイエスの十字架で決定的に示されます。私たちが差し出して神に近づくのではなく、神が近づいて救ってくださるのです。ここに救いの安定があります。

そしてマタ10で、主は弟子を遣わします。これは「救いを受けた者が、救いを分かち合う」流れです。備えられた恵みが、私たちを通って広がっていく。創23の“土地に刻む一歩”も含めて、今日の通読はこう告げます。神の計画は、試練で折れず、別れで途切れず、迫害で止まらない。むしろ、それらを通って、神の備えと導きがいっそう確かになる。


まとめ 今日の一歩

「私のイサク」を握りしめているなら、主に預けてみる

今日、ノートに小さく一行だけ書いてみてください。「私のイサクは何だろう」。それは、手放したくないもの、失うのが怖いもの、守りたいものかもしれません。書けたら、その横にもう一行。「主が備える」。それだけで、心の重心が少し変わります。

「恐れ」を使命に変える短い祈り

主よ。私が怖がっている場所に、あなたの備えを見せてください。私の手が震えるとき、あなたの手が確かに働いていることを確信させてください。私を、福音を運ぶ者として今日も用いてください。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

通読は、毎日“小さな一歩”なのに、あとから振り返ると“大きな道”になっています。神が備えておられたこと、神が導いておられたこと、神が用いてくださったことが、一本の線として見えてきます。今日も一緒に進みましょう。雨の日でも、傘はある。暗転しても、光は差し込む。神は備えて下さっています。

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