
レビ記5章(過失と償い、告白と赦し)
解説
レビ記5章は、
罪が「心の中の反逆」だけでなく、生活の中の過失や不注意、責任の放置にも及ぶことを示します。
たとえば、証言すべき場面で沈黙してしまうこと、汚れに触れていたのに気づかなかったこと、軽率な誓いをして果たせないことなどが取り上げられます。
ここで大切なのは、罪とは「悪意があったかどうか」だけで決まらず、神の前での責任から逃げた時に起こるという現実です。
そして5章は「罪を犯したときは告白しなさい」と語ります。
隠すことが解決ではなく、神の前に認めることが回復の入口なのです。
さらに神は、貧しい人にも赦しの道が開かれるように、ささげ物に段階を設けられました。家畜が無理なら鳥、鳥も無理なら麦粉でもよい。これは、赦しが「能力」ではなく、神の恵みによることを示します。
神様が望んでおられるのは、
まず誠実さです。自分の過失を小さくせず、言い訳より先に「主よ、赦してください」と告白することです。
今日の私への適用はこうです。私は、言うべきことを黙って流していないでしょうか。正しさを知りながら、面倒だからと先延ばしにしていないでしょうか。
主は責めるためではなく、赦して立て直すために、告白へ招いておられます。
今日一つ、心に引っかかっていることを主の前に言葉にして差し出し、赦しを受け取り直しましょう。
マルコ12章(神のものを神に、全力で神を愛する)
解説
マルコ12章は、主イエスが神殿で人々と対話しながら、神の国の核心を明らかにされる章です。
ぶどう園のたとえでは、神が遣わした僕たち(預言者)を拒み、最後に送られた「愛する子」さえ殺してしまう人間の罪が描かれます。
これは十字架へ向かう主の歩みと重なり、神の救いが人の拒絶の中でも止まらないことを示します。
次に納税問題では「神のものは神に返しなさい」と語られます。信仰は宗教行事だけではなく、人生の主権を神に明け渡すことです。
復活論争を通しては、神は生きておられ、神の国の現実は人の理解を超えることを示されます。さらに最大の戒めでは、「心を尽くし、いのちを尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛し、隣人を愛しなさい」と教えられます。信仰の中心は、形式ではなく愛です。
最後に貧しいやもめの献金が語られます。額は小さくても、彼女は全生活を神に委ねました。神は金額で測るのではなく、信頼の深さを見ておられます。
神様が望んでおられるのは、
まず「神のものを神に返す」生き方です。
今日の私への適用はこうです。私は時間、心、計画を誰のものとして扱っているでしょうか。また主を愛することが、知識や形式に置き換わっていないでしょうか。主は、心を差し出す信仰と、隣人を愛する具体的な歩みへと招いておられます。
今日の中心メッセージ
レビ記5章は、悪意のない過失や沈黙、軽率な言葉さえも神の前で放置せず、告白して赦しを受け取る道が備えられていることを示します。赦しは力や条件ではなく、恵みによって与えられます。
マルコ12章では、神は預言者を拒んだ人間にも「愛する子」を遣わし、救いを止めないことが明らかになります。そして主は、神のものを神に返し、全力で神を愛し隣人を愛するよう招かれます。
今日、主は私たちを、隠す心から告白へ、形式から愛へ、自己中心から神中心へと導いておられます。
