
【聖書通読】 第8週6日目 日々の忠実と、主を待ち望む信仰|レビ6/マルコ13
レビ記6章
解説
レビ記6章では、前半で「償い」に関すること、後半で祭司たちがささげ物をどのように扱うかが語られます。まず大切なのは、人が隣人の物をだましたり、預かった物を返さなかったり、拾った物を自分のものにして偽ったりした場合、神様の前に罪を犯したとされていることです。つまり神様は、礼拝だけでなく、日常の人間関係の誠実さを深く見ておられるのです。神様との関係が正しいと言いながら、人に対して不誠実であることはできません。
その場合、ただ「ごめんなさい」と言うだけではなく、元の物を返し、さらに五分の一を加えて償うように命じられています。
ここには、罪は心の中だけで終わるものではなく、壊した関係をできるだけ回復する責任が伴うことが示されています。その上で、償いのささげ物を持って主の前に出るのです。神様は、表面だけ整えて済ませるのではなく、真実な悔い改めを求めておられます。
後半では、全焼のささげ物の火を絶やしてはならないこと、穀物のささげ物や罪のためのささげ物の取り扱いなどが記されます。特に「祭壇の火を絶やしてはならない」という命令は印象的です。礼拝は一時的な熱心さではなく、主の前で燃え続けるものだということです。
今日の私への適用は
はっきりしています。私は神様の前に祈る一方で、身近な人との関係に不誠実な部分を残していないでしょうか。また、主への礼拝の火が、忙しさや慣れの中で弱くなっていないでしょうか。神様が望んでおられるのは、正直に償うこと、関係を回復しようとすること、そして日々主を礼拝する火を絶やさないことです。小さな祈りでも、短い聖書の時間でも、主への火を今日も守り続けることが求められています。
マルコ13章
解説
マルコ13章は、主イエスが神殿の崩壊と終わりの時について語られる章です。弟子たちは壮大な神殿の建物に目を奪われていましたが、イエス様は「ここで石が崩されずに積まれたまま残ることはない」と言われました。人が「これなら安心」と思っているものも、永遠ではないということです。ここから主は、戦争、地震、飢饉、迫害、惑わしなど、終わりに向かう時代のしるしを語られます。
しかしこの章の中心は、未来の出来事を細かく予測することではありません。何度も繰り返されるのは、「惑わされないように」「目を覚ましていなさい」という呼びかけです。苦しいことが起こると、人はすぐ不安に支配されます。また、偽りの救い、偽りの希望に引き寄せられやすくなります。だからこそ主は、出来事そのものより、主の言葉にとどまることを重視されます。
また、福音はまずすべての国の人々に宣べ伝えられると言われます。終わりの時代の話の中にあっても、神様の関心はただ「さばき」ではなく、「救い」を届けることにあります。そして最後には、人の子が力と栄光を帯びて来られる希望が語られます。恐れだけで終わる章ではなく、主が最後に勝利されることを示す章なのです。
今日の私への適用は
私は、目に見える安定や世の情報に心を支配されていないでしょうか。不安な時代の中で、主の言葉よりも人の声を大きく聞いていないでしょうか。神様が望んでおられるのは、騒がず、眠り込まず、主に目を向けて生きることです。毎日の通読もその一つです。主の再臨を待ち望みながら、今日与えられた持ち場で忠実に立つこと、それがこの章からの大きな招きです。
今日のまとめ
レビ記6章は、神様が礼拝の形だけでなく、日常の誠実さと、主への火を絶やさない歩みを求めておられることを示します。
マルコ13章は、揺れる時代の中で、目に見えるものに安心を置くのではなく、主の言葉に立って目を覚まして生きるように教えます。
つまり今日の中心は、神の前でも人の前でも誠実に生き、どんな時代にも主を見失わないことです。主は、派手な成功より、日々の礼拝と忠実さを喜ばれます。今日も火を絶やさず、主を待ち望む者として歩みましょう。
