貧しいけれど、豊かなおばあさん/真実な豊かさとは何ですか?

この記事の目次

真実な貧しさと豊かさ、そして「天に宝を積む」喜びとは何ですか?

もう何年も以前のことですが・・・
その日は、久しぶりに電車に乗って出かけました。
ちょうど朝の出勤時間で、多くの人が押し合いながら乗っていました。
顔を見ると、疲れがにじみ、どこか憂うつそうで、気持ちが張りつめているようでした。
「みんな、緊張とストレスの中で頑張っているんだな」
そう思うと、胸が少し痛くなりました。
そんな朝、駅から職場へ歩く途中で、信号のあたりでうつむきながら必死に何かを探している、80歳前後のおばあさんがいました。
様子があまりにも真剣だったので声をかけると、「お金を落としたの。どこにいってしまった・・・」と言うのです。
時間はそうとう余裕があったので、私は一緒に探すのを手伝いました。
しかし、しばらく探しても見つかりません。
そこで「いくら落としたんですか?」と尋ねると、返ってきた答えは、
「10円足らないの」
でした。
正直、一瞬「10円…?」と思いました。
でも、おばあさんの手を見たら、その思いが引っ込みました。
おばあさんは870円をぎゅっと握りしめていて、嬉しそうにこう言ったのです。
「このお金でね、お昼のお弁当が買えるの。甘いお菓子も買えるの。夜のお弁当だって、いろいろある中から好きなのを選べるのよ。こんな幸せ、ないでしょう」と。
しかも何度も「感謝」という言葉と「嬉しい」ということばを何度かはなしていました。
おばあさんは、毎日「880円だけ」持って出ると決めているそうです。
無駄遣いしないために。
しかしその880円で、今日は何を買おうかと楽しみにしているのです。
だから10円が足らないことが、ほんとうに困るのだそうです。
でも、困りながらも不平ではなく、喜びと感謝が表情にあらわれているのです。
この姿は、私の心に強く残りました。
しかしなかなか見つからなかったので、私は「自分のポケットから10円を出して渡そうか」とも考えました。
でも、おばあさんが10円を必死に探している姿は、まるで宝物を探しているようでした。
その喜びを奪いたくないと思い、私も本気で探しました。
すると少し離れたところに、10円が落ちていました。
おばあさんは「まぁ!」と声を上げて、宝石でも見つけたように喜びました。
私も、なんとも言えない温かい気持ちになりました。
ここで、ふと思いました。
同じ状況でも、人はこんなに違うのだ、と。
普通なら、「たった880円で何ができる」と不満が出ても不思議ではありません。
「もっと欲しい」「なんでこんなに少ないの」と愚痴が出てもおかしくない。
でもこのおばあさんは、880円の中で“選べる喜び”を見つけ、感謝していました。
不足を数えるのではなく、すでに与えられている恵みを数えていたのです。
ここから、「真実な豊かさ」について考えさせられます。

真実な豊かさとは何でしょうか?

お金が少ないことが、貧しさではありません。
なぜなら、お金が多くても心が満たされない人がいるからです。
足りないものを数え続け、比較し続け、心がいつも渇いているなら、それはとても苦しい貧しさです。
この貧しさは、財布の中ではなく、心の中で起こります。
反対に、真実な豊かさとは何でしょう。
それは「持ち物の量」ではなく、「心の満たし」です。
どれだけ感謝できるかという心が大切です。
それは、与えられているものを喜ぶ心です。
今日を大切に味わう心です。
おばあさんの豊かさは、まさにここにありました。

では、クリスチャンの豊かさとは?

このおばあさんが、一日880円だけでも
今日はあのお弁当を買おうかとか、あのデザートを買おうとか、今日はなにを楽しもうかとワクワクして毎日すごしているのです。
足らないこと、不満なことなどを探しているのではなく、喜べる事楽しめることを探しているのです。
わたしはこのおばあさんに思わず尋ねました。
「クリスチャンですか?」と。
すると信じられないことですが、「はい」という返事が返ってきました。
うれしかったです。
そして、わたしもクリスチャンですが、このおばあさんように毎日過ごせていないことが恥ずかしかったです。
クリスチャンが持つ豊かさは、さらに深いところにあります。
それは、神様の愛と恵みを受け取り、永遠のいのちの希望を持っていることです。
どれほど環境が揺れても、人生が思うようにいかなくても、
「私は神に愛されている」
「私は赦されている」
「私は永遠のいのちに招かれている」
この土台が揺らがない。
だから心の深い部分が守られます。
ノンクリスチャンの方の多くは、もちろん立派に、誠実に、心豊かに生きておられます。
けれども、人生の苦しみや死の壁の前に立たされたとき、最後の支えが「自分の頑張り」や「今あるもの」だけになってしまうことがあります。
そこが崩れたとき、心が一気に空っぽになるのではないでしょうか。
それは本当に苦しいことです。
しかし、クリスチャンは違います。
クリスチャンも弱ります。落ち込みます。揺れます。
でも最後のよりどころは「自分」ではなく、「神様の愛」です。
自分の出来が土台ではなく、十字架で示された赦しと、復活で確定された希望が土台です。
だから、心の底が折れにくいのです。

「天に宝を積む」とは何でしょうか?

聖書は言います。
地上に宝を積むのではなく、天に宝を積みなさい、と。
これは「お金を持つな」という意味ではありません。
また、「貧しくなれ」という意味でもありません。
本当の意味はこうです。
心の中心を、壊れるものではなく、永遠に残るものに置きなさい。
という招きです。
地上の宝は便利です。必要です。
でも、それだけを“命の支え”にすると、いつか揺れます。
健康、仕事、人間関係、財産、評価。
どれも大切ですが、永遠ではありません。
天に宝を積むとは、
神様を愛し、神様の言葉を信じ、
人を愛し、赦し、支え、
祈り、礼拝し、
永遠のいのちの希望を抱いて生きることです。
これらは、目に見えにくいけれど、決して失われません。
そして、心を確かに豊かにします。
おばあさんが10円を見つけて喜んだとき、私は思いました。
「喜びは、金額の大きさではなく、心の置き場所で決まるのだ」と。
同じように、クリスチャンの喜びも、環境の大きさより、心の中心がどこにあるかで決まります。
神様の愛に置かれた心は、揺れながらも戻ってこれます。
恵みに戻って、また感謝できるのです。
最後に、あなたに問いかけたいです。
あなたは今、足りないものを数えて苦しくなっていないでしょうか。
それとも、すでに与えられている恵みを数えているでしょうか。
そして何より、あなたの心の宝は、どこに置かれているでしょうか。
神様は、私たちを「不足の牢屋」に閉じ込めるためではなく、
「恵みの自由」に招くために、救い主イエス・キリストを与えてくださいました。
十字架は赦しの約束です。
復活は希望の確定です。
この宝を受け取るなら、私たちの心は、貧しくても豊かにされます。
今日、あなたも「天に宝を積む」一歩を踏み出してみませんか。
それは難しい修行ではなく、
神様の愛に心を置き直すことから始まります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事