喜びが溢れ出す信仰生活──パウロの手紙から読み解く4つの原動力

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喜びが溢れ出す信仰生活──パウロの手紙から読み解く4つの原動力

導入:なぜパウロは苦難の中でも「喜んで」命を懸けられたのか?

義務感や強靭な精神力ではない、信仰の真の原動力

クリスチャンとしての毎日の歩みの中で、ふと「~しなければならない」という見えない重荷を感じることはないでしょうか。もっと祈らなければ、もっと愛さなければ、もっと聖書を読まなければ、もっと奉仕しなければ……。真面目で誠実な人ほど、信仰生活がいつの間にか「義務」や「努力のリスト」にすり替わってしまうことがあります。

聖書に登場する使徒パウロの生涯は、投獄、鞭打ち、難破、そして周囲からの激しい迫害と、苦難の連続でした。それにもかかわらず、彼の手紙には常に「喜び」と「感謝」が溢れています。彼があれほどの過酷な状況の中で、喜びに満ちて命がけの歩みを貫くことができたのは、決して「使徒としての義務感」や「強靭な精神力」があったからではありません。

18世紀のドイツに、ツィンツェンドルフという若い貴族がいました。彼はある日、立ち寄った美術館で「十字架につけられたイエス・キリスト」の絵画を見上げます。そこには、このような言葉が添えられていました。

「私はあなたのためにこのようなことをした。あなたは私のために何をするのか?」

その言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた彼は、あふれる涙とともに自分の若さと地位のすべてをキリストに捧げる決意をしました。それは義務ではなく、愛への熱狂でした。

パウロの原動力も、まさにこの「十字架の愛への熱狂」でした。彼の手紙から、私たちの信仰の土台を力強く強める「4つの原動力」をひもといてみましょう。

原動力①  赦されるはずのない自分が赦された「圧倒的な恵み」

過去の過ちを完全に覆い尽くす「破格の赦し」への驚き

パウロ(かつてのサウロ)は、もともと熱心な宗教家として、キリストの弟子たちを憎み、彼らを投獄し殺すことに加担していた「迫害者」でした。彼は、自分の手が血に染まっているという過去を生涯忘れることはありませんでした。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

— Ⅰテモテ 1:15

普通であれば、神の裁きを受けて当然の存在です。しかし神は、敵であった彼を滅ぼすどころか、完全に赦し、あろうことか「異邦人への使徒」という最も重要な働きへと召し出しました。死刑囚がいきなり大統領の特命大使に任命されるような、常識では計り知れない「破格の恵み」です。

「罪人のかしら」だからこそ深く知ることができる神の愛

パウロの献身の第一の原動力は、この「赦されるはずのない自分が赦された」という圧倒的な驚きでした。

「しかし、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

— Ⅰコリント 15:10

自分の弱さや失敗に直面したとき、私たちはつい自信を失ってしまいます。しかしパウロは「罪人のかしらである私でさえ愛されたのだから、神の恵みから漏れる人は誰もいない」と確信していました。私たちの弱さや欠けすらも、神の計り知れない恵みを輝かせるための舞台となるのです。

原動力② 自分を包み込んで離さない「キリストの愛」

理屈や意志の力ではなく「キリストの愛が迫っている」という感覚

「命がけの献身」という言葉を聞くと、私たちはつい、歯を食いしばって頑張る悲壮な自己犠牲の姿を想像してしまいます。しかし、パウロが語る献身はそれとは全く異なります。

「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのであると。」

— Ⅱコリント 5:14

ここで「取り囲んでいる(迫っている)」と訳されている言葉には、「両側から強く圧迫する」「押し流す」といったニュアンスが含まれています。

悲壮感とは無縁の、愛の濁流に押し出される歩み

川の激しい流れの中に身を置いたとき、人は自分の力で泳ぐ必要はありません。ただ、その強大な流れに身を任せるだけで、前へと運ばれていきます。パウロの歩みはまさにこれでした。理屈や意志の力で自分に鞭打っていたのではなく、「私のために死んでくださったキリストの愛」という濁流に完全に巻き込まれ、押し出されるようにして前進していたのです。

愛する人のために何かをするとき、そこに「苦労」はあっても「悲壮感」はありません。パウロにとっての献身とは、愛する方への自然で止められない応答だったのです。

原動力③ 他のすべてが「ちりあくた」に見えるほどの絶対的価値

いやいや手放す自己犠牲ではなく「最高の宝」を見つけた喜び

パウロはもともと、将来を嘱望されたエリート学者であり、地位も名誉も、豊かな生活も約束されていました。しかし彼は、キリストに出会った途端、それらをいとも簡単に手放してしまいます。

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのものを損害と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」

— ピリピ 3:8

ここで使われているちりあくた(生ゴミ)という言葉は、非常に強烈です。

この世の価値観を根底から覆す、キリストを知るすばらしさ

想像してみてください。安いおもちゃの宝石を握りしめて「絶対に離さない」と泣いている子どもがいます。しかし、その目の前に「本物のダイヤモンドが詰まった宝箱」を開けて見せたらどうなるでしょう。子どもは、喜んで自分からおもちゃを手放すはずです。

パウロがこの世の地位を手放したのは、「神様のために我慢して捨てた」のではありません。キリストを知ることの素晴らしさが圧倒的すぎて、かつて宝だと思っていたものが本当に「ただのゴミ」にしか見えなくなってしまったのです。「これを捨てても惜しくない」と思えるほどの絶対的な価値、それがイエス・キリストご自身でした。

原動力④ 自分ではなく「十字架」だけを誇る生き方

「古い自分は十字架とともに死んだ」ことによる絶対的な平安

現代社会では、常に「自分の価値を証明すること」が求められます。成績、業績、人からの評価。私たちは無意識のうちに、自分の価値を何かの「結果」で測ろうとします。しかし、パウロは全く別の次元に生きていました。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対し、私は世に対して死にました。」

— ガラテヤ 6:14

「死んだ者」は、人からの評価に一喜一憂しません。パウロは、イエス様の十字架の愛を知ったとき、「神に敵対していた古い自分はすでに死んだのだ」という絶対的な平安を手に入れました。

自分の業績ではなく、ただキリストの十字架だけを見つめる

もう、自分の立派さや業績で価値を証明する必要はどこにもありません。天の父なる神様が、御子の命と引き換えにするほどに私を愛し、恵みで取り扱ってくださっているからです。だからこそパウロは、人からの賞賛も批判も恐れることなく、ただ「キリストの十字架」だけを誇りとして、自由の空を羽ばたくように走り抜くことができたのです。

結び:喜びが溢れ出す「生きた供え物」としての歩みへ

「~しなければならない」という義務感を手放す

私たちが今日、信仰生活のなかで疲労感や重荷を感じているとしたらそれはもう一度「十字架の原点」に立ち返る最高のチャンスです。「~しなければならない」という義務感の荷物を、一度すべてイエス様の足元に降ろしてみてください。

そして、静かに思い巡らしてみてください。赦されるはずのなかった自分が、どれほどの代価を払って救い出されたのかを。キリストの愛が、今この瞬間もどれほどあなたを力強く取り囲んでいるかを。

日々の生活の中で、十字架へのこころからの感謝を生きる

ダビデの三勇士たちが、愛する王のためにただ喜んでもらいたい思いだけで。命がけで水を汲みに行ったように。ツィンツェンドルフ伯爵が、キリストの愛に心を打たれてその生涯を捧げたように。

私たちの「命がけの献身」とは、特別な偉業を成し遂げることではありません。毎日のありふれた仕事、家族への何気ない言葉かけ、人知れずこなす地道な作業。その「ごく普通の日常」といういのちを、「イエス様、あなたが私を救ってくださったことがただ嬉しいのです。あなたを喜ばせたいのです」という感謝とともに、愛の濁流に身を任せて捧げていくことです。

その「こころからの感謝」から溢れ出す歩みこそが、天のお父様を最も喜ばせる「生きた供え物」となり、あなたの人生を真の喜びで満たしていくことでしょう。

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