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【聖書メッセージ】クリスチャンが弱さを誇る時、神様の恵みが輝きます。
◉メッセージを耳からも聞きましょう(5分57秒)
弱さを誇る――福音の逆転へ
弱さを隠したくなる私たち
私たちは本音では、弱さを隠したくなります。
できる人に見られたいですし、しっかり者でいたいです。
信仰者としても「揺れてはいけない」「落ち込んではいけない」と思ってしまいます。
「誇り」の向きが変えられます(自分ではなく主へ)
ところが聖書は、私たちの常識をやさしく、そして力強くひっくり返します。
パウロは以下のように断言します。
「わたしは、弱さを誇ります。」
「わたしが弱い時にこそ強いのです。」と。
そして主はこう言われます。
「わたしの恵みはあなたに十分です。力は弱さのうちに完全に現れます。」(第二コリント12章)
ここでの「誇り」は、自分を大きく見せる自慢ではありません。
主がくださる恵みを、まっすぐに指さす告白です。
「私は弱いです。だからこそ主が支えてくださいます。だからこそ主により頼むしかない」と、主に視線を向ける信仰の向き直しです。
神様の恵みは弱さのうちに完全にあらわれます
主の約束「わたしの恵みはあなたに十分です」
弱さは痛いですし、できれば無いほうがいいです。
パウロも「とげ」を抱え、取り去ってくださいと何度も願いました。
しかし主は、取り去る代わりにこう約束されました。
「わたしの恵みはあなたに十分です。」
「十分です」とは、「足りないところを責めません」という意味でもあります。
「あなたが崩れそうな時でも、わたしの支えは途切れません」という約束です。
「力は弱さの中で完全に現れます」とはどういう意味ですか
主の力は、私たちが元気で余裕がある時にも働きます。
しかし、弱さの中では“もっとはっきり”見えるようになります。
なぜなら、私たちの力が尽きる時にこそ、「主がしてくださった」と分かるからです。
弱さは、恵みの舞台になります。
私たちが主に寄りかかる場所になります。
そして主は、その場所で力を現してくださいます。
弱い時にこそ強い――その理由が見えてきます
本当の強さは「自分の力」ではなく「主により頼むこと」です
私たちは「強くなってから神様に近づこう」と考えがちです。
整ってから祈ろう、立派になってから奉仕しようと思ってしまいます。
けれど福音は逆です。
弱いままで主のもとに行けます。
壊れかけの心のままで、主にしがみつけます。
その時、私たちは発見します。
「自分で何とかする強さ」ではなく、「主が支えてくださる強さ」があることをです。
弱さが「祈り」と「従順」を生み、主の働きの場になります
弱さは私たちを祈りへ連れていきます。
余裕がある時は、自分の計算で進めます。
しかし限界にぶつかる時、私たちは祈りに向かいます。
「主よ、助けてください」と叫ぶ祈りが生まれます。
また弱さは、へりくだりを生みます。
強がりが崩れ、助けを受け取れるようになります。
御言葉、教会、家族、友、必要な支えが、恵みとして入ってきます。
弱さは、恵みの入口を開く鍵にもなります。
弱さを誇るための実践――今日の一歩
弱さをそのまま差し出す祈り(祈りの例)
まず、主の前で正直になります。
弱さを否定せず、そのまま差し出します。
➡主よ、私は弱いです。
➡でも、あなたの恵みは私に十分だと信じます。
➡私の弱さの中で、あなたの力を現してください。
弱さの中での具体的な一歩(休む・話す・助けを受け取ります)
次に「小さな一歩」を選びます。
大きく変えようとしなくて大丈夫です。
* 今日は少し休みます。
* 信頼できる人に話します。
* 必要な助けを求めます。
* 御言葉を一節だけ握ります。
主は、小さな従順を通しても確かに働かれます。
弱さが用いられて、だれかが慰められます
私たちの弱さは、だれかを慰める器にもなります。
完璧な人の言葉は届かない時があります。
しかし「私も弱かったです。そこで主に支えられました」という証しは、人の心に触れます。
主は、弱さを恥で終わらせず、恵みの証しとして用いてくださいます。
結び――弱さの中で、主の恵みが輝きます
私たちが誇るのは、成功や能力ではありません。
主の恵みです。
弱さが残っていても、涙があっても、主が「十分です」と言ってくださるなら希望があります。
「弱さを誇ります。」
「弱い時にこそ強いのです。」
神様の恵みは、あなたの弱さの中で完全にあらわれます。
今日、あなたの弱さが主の力の舞台となりますように。

