今日は、特別な講演会のお手伝をしました。
精神障害の啓発活動で各地で落語をされている当事者の方が、落語と講演をされました。
50人くらいの参加者の前に高座を作り座布団を置いて、本格的な落語を聞かせるという講演会でした。
それで、その落語をされるかたが、出てくるときと、終わって引っ込むときの出囃子(でばやし)の音楽をCDプレーヤーで鳴らす役目をしなければならなくなりました。
すごく緊張しました。なぜなら、その音楽で出てこられて、その音楽で高座から降りていかれるからです。急に、その役を言われ正直嫌でした。
なぜか失敗をしそうに思ったからです。でも、他にいなかったので仕方なく引き受けました。
司会者が紹介したら、出る出囃子を鳴らし、座っておじぎをしたら、音を切るという段取で、そして、落語が終わって頭をさげると、帰る出囃子を鳴らすという約束でした。
出る出囃子は、うまくいき気持ちよく落語をしてもらいました。
しかし、落語が終わって帰るときに、おちをつけて頭を下げられました。そのとき、出囃子がなるはずでした。でも、スイッチを押してもどうしても音楽が鳴りません。
演者も、頭をさげて上げても出囃子がならないので、立つわけにもいかず、私のほうを早く出囃子を鳴らしてくださいと懇願するようにじっと見つめられました。
しかし、スタートボタンをいくら押しても音楽がスタートしません。演者はうらめしそうにこちらを見ておられました。少しの時間だったと思うのですが、私にはすごく長い時間だったように思われました。そして、ようやく出囃子が鳴ってことなきをえました。
自分の失敗が、それだけでなく落語を演じておられるかたの失敗かのようにおもわれたらと思うと、申し訳なくて本当に穴があったらその穴に入って、隠れてもう出たくないという状態でした。
でも、後で質問をする時間があったので、手を上げて質問しました。どうしても謝りたくて、そしてそのときの失敗は自分のせいであると、どうしても言いたかったからです。
その時の失敗をみんなに少し笑ってもらいながら、告白して、謝り、「どうしようもない失敗をしたときは、どのようにして立ち直りますか?」と聞きました。すると、その落語をしてくださったかたは、こう言いました。
「失敗はつらいけれど、失敗をしたとしても、同じ思いの仲間が必ず励ましてくれます。あなたも、だれか仲間が励ましてくれます。だから落ち込まないでください。」と。
確かに、励ましたり、慰めたりしてくれる仲間がいます。それは、感謝のことだと思いました。
と同時に、私にはもっと素晴らしい方がおられるとその時、実感しました。
なぜなら、罪を裁かなければならない神でありながら、私を慰め励ますだけでなく、私の罪のために身代わりに死んでくださり、甦って今も共にいてくださるイエス様がおられるからです。
【聖書】
ヨハネの福音書15章
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
しもべとは呼びません。友と呼びました。と、創造主なる神様が、私のすべてのどうしようもない罪をご存じな神様が、愛される価値のない私を友と呼んでくださり、その友のためにいのちを捨ててくださったのです。
今日落語をしてくださった方は、統合失調症で、夜ねれなかったり、幻聴が聞こえたりしておられます。
また、緊張の前に緊張をおさえる薬を服用されています。
しかし、落語をとおして、一人でも多くの方に統合失調症という病気を知ってもらって理解してもらおうと日々がんばっておられます。
その一途(いちず 一つの心single-minded)なこころに打たれました。
私のこころは、single-minded イエス様だけだろうか?