『 試練をくぐった者の告白 』と『聖歌604番かぞえよ主の恵み』Long

この記事の目次

『 試練をくぐった者の告白 』

『 試練をくぐった者の告白 』 (読み人知らず)というクリスチャンの詩を読みました。
私自身の求めるものと神様の与えてくださるものとは違う場合があります。
しかし
『神様は全てを益としてくださる方』です。
そして『信仰には必ず報いてくださる方』です。

ルツ記は聖書のページ数で言えば 6ページくらいしかありません。
ルツは神様が 「未来にこうして、ああしてくださって素晴らしい祝福を与えてくださる」 ということを知っていたから、
従順にけなげに神様を信じ信頼して歩んだのではありません。
反対に、人間的には求めているものが得にくい状況にどんどん入り込んで行きました。
それでも、ルツの神様へのけなげさは素晴らしく美しく従順です。
私もルツのように神様だけを信頼して従順にけなげに従って、
私の人生の次のページをめくれば(たった6ページくらいのルツ記の次のページに隠されている神様の計画と祝福を見るように)
神様の用意して下さっている神様のみこころをもっともっと味わい知ることができるのです。

例えば、のちにルツの夫となる 『 ボアズ 』を神様が備えて下さっていたことや、

のちにマタイの福音書に記されている イエスキリストの系図に 異邦人であるルツの名前が記されるほどの信じられない 『 神様の祝福 』が与えられたことです。

神様への信仰と従順を持って、
神様の次のページに隠されている祝福を味わいたいと、こころから願っています。

『試練をくぐった者の告白』(読み人知らず)という詩

私が神様に求めたのは、勝ちを得るための強さでした。

けれども

私は弱くされました。謙虚に従うことを学ぶために。


私が神様に求めたのは、もっと大きな事を成し得る健康でした。

けれども

わたしには病弱が与えられました。もっと善いことをするようにと。

 

私が神様に求めたのは、幸福になるための富でした。

けれども

私は貧しさを与えられたのです。智慧を得るようにと。

 

私が神様に求めたのは、人びとの称賛を得るための力でした。

けれども

私は弱さを与えられました。神が必要であることを感じるために。

 

 

私が神様に求めたのは、人生を楽しむためのあらゆることでした。

けれども

私には命が与えられたのです。すべてを享受するようにと。

 

私が神様に求めたものを、私はなにひとつ得られませんでしたが・・・
願ったことはすべてかなえられました。

このような私でありますのに、

神は、私のことばに言い表せぬ祈りに応えられました。

私はすべての人のうちで、もっとも多くの祝福を受けている者です。

聖書の御言葉に次のように語られています。

●コリント人への手紙 第二 8章9節●
あなたがたは、私たちの主イエスキリストの恵みを知っています。

すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


●ピリピ人への手紙4章11~13節●
乏しいからこう言うのではありません。

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。

また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

たしかに、私たちが求めるものと、神様が与えられるものとは違うことが多くあります。
でも、それが最善なのです。
なぜなら、神様はすべてを益としてくださる方だからです。

病気であるなら、

イエス様により頼むチャンスであり、

健康であるなら、

もっとイエス様に従えるチャンスです。

時間があるなら、

もっとイエス様を証しできるチャンスであり、

時間がないなら、

イエス様に信頼できるチャンスです。

結局、どんな時でも、イエス様に信頼し従うことが、あらゆる境遇に対処する秘訣なのです。
今がどんなに苦しくて、つらくて、悲しみのどん底にいるかのように思える時でも、信仰で次のページを開けば神様の祝福で満ち溢れているのです。
どんなに多くの人が、次のページをもう1ページを信仰で開かずに終わってしまうことが多いことでしょう。
ルツ記の次のページに隠されている神様の素晴らしいご計画と祝福を発見できるように、今日も信仰で、
私の次のページに期待してワクワクした日を過ごしたいです。
今日も、主の恵みをひとつづつ数えて感謝しましょう。

「試練をくぐった者の告白」の内容は一貫してこう語ります

人は「力・健康・富・評価・思い通りの人生」を求めて祈ったのに、
神はしばしば“逆”のもの

弱さ、病、乏しさ、隠された歩み、思い通りにならない日々を与えられました。
しかし後で振り返ると、

その“逆”こそが謙遜、従順、知恵、神への依り頼みを育て、結果として「私は願ったものはほとんど得なかったが、必要なものはすべて与えられた」という結論に至るのです。

そんな告白です。
この文章が胸を打つのは、

祈ったのに叶わなかった」という痛みを否定せず

それでも神の手の中で“意味”へと変わっていく道筋を示すからです。
つまり、これは成功談ではなく、傷のある信仰者の言葉です。

だからこそ、同じように祈りが届かないように感じる人の心にも届きます。

 

【内容の要点を、まとめると】

告白は、次の“ねじれ”を通って神の愛に至ります。
①「強くなりたい」→「弱くされた」

弱さを通して、へりくだりと従順を学んだ。

➁「大きなことをしたい」→「制限が与えられた」

できる範囲の中で、より良いことを学んだ。

③「豊かになりたい」→「乏しさが与えられた」

知恵と感謝を学んだ。

④「人に認められたい」→「弱さが残った」

神を必要とする心が保たれた。

⑤「全部ほしい」→「人生そのものが与えられた」

結局、すべてを“恵みとして味わう目”が与えられた。

つまり、

神は「願いを叶える打ち出の小槌(うちでのこづち)」ではなく「何でも与える親」ではなく、

「子を育てる父」「子を成長させる親」として働かれる 

ということです。


【ここから学べること:神様の恵みと愛】

 

1)神様の愛は、ときに“願いの形”ではなく“必要の形”で来る

私たちは、試練のただ中では「奪われた」と感じます。
しかし神は、私たちから何かを奪うためではなく、私たちを守るために“余計な重荷”を下ろされることがあります。
たとえば、子どもが道路に飛び出そうとしたら、親は強く腕を引きます。
子どもは「痛い」と思います。でもそれは、命を守る痛みです。
同じように、神様が「今は違う」と止められる時、そこには“先に見えている危険”があるのかもしれません。

私たちは全体図を見られないけれど、神は見ておられる。
だから、

愛はしばしば「止める」「待たせる」「小さくする」という形で現れます。


2)「すべてを益とされる」は、“すべてが良い”という意味ではない

ローマ8章28節の有名な約束は、つらいこと自体を「良い出来事」に塗り替える言葉ではありません。
神が、つらい現実を材料にして、最終的に良いものへと組み立て直すという希望です。
【たとえ】
料理にたとえるなら、薬味の辛さや苦味が“単体では食べにくい”のに、全体の一皿の中で役割を持つようなものです。
だから私たちは 、涙を流しながらでも言えます。
今は意味が分からない。でも神は無駄にしない。
告白者が到達したのも、まさにこの地点です。
欲しいものは違っても、必要なものは与えられた。


3)試練は神が遠い証拠”ではなく、“神が近くで彫っている証拠”になり得る

金は、火を通されて不純物が浮き上がります。
火は金を滅ぼすためではなく、金を金らしくするためです。
信仰も同じで、試練は「何に頼っていたか」をあぶり出します。
健康、評価、貯金、予定、体力、人間関係――それ自体は悪くありません。
でも、それらが崩れた時、なお立つ土台が必要です。
この告白は、土台が「自分の強さ」から「神の恵み」へ移る物語です。
弱さが残ったからこそ、神への依り頼みが保たれ、むしろ守られた、と告白するのです。

4)恵みは“状況が良くなること”だけではない

神の恵みは、

結果(問題解決)として与えられることもあれば、
過程(支え、平安、導き)として与えられることもあります。
病が癒えなくても、心が守られる恵み。
環境が変わらなくても、視点が変わる恵み。
涙が消えなくても、独りではないと知る恵み。
告白者はそれらを総合して「私は最も豊かに祝福されている」と言えるようになりました。


【たとえ話:試練の中で“益”に変わる仕組み】

たとえ①「縫い目の裏側」
刺繍の表側は美しい模様でも、裏側は糸が絡み、結び目だらけです。
今あなたが見ているのが“裏側”なら、意味が分からないのは当然です。
でも職人は、表側の完成を知っています。
神様の摂理は、しばしば「裏側の糸」のように表が分かりにくく見えるのです。
けれども、神は無駄な糸を通していない——これが「すべてを益とされる」希望です。

たとえ②「剪定(せんてい)」
ぶどうの木は、実を結ぶために剪定されます。
伸び放題の枝は一見元気そうですが、実は小さくなります。
切られる時は痛い。
しかし、目的は“実り”です。
神の愛も、私たちを枯らすためでなく、実らせるために整えられることがあります。

たとえ③「処方薬の苦さ」
苦い薬は、舌にはつらい。でも医師は、体を守るために処方します。信仰の旅でも、神は私たちの“今
の快”より“永遠のいのち”を見据えて導かれます。苦しみの杯が与えられても、神の手が離れていない
なら、それは破滅ではなく治癒の道に置かれた一歩です。

【聖歌604「数えてみよ主の恵み」とのつながり】

聖歌604は、

人生の嵐に揺さぶられる時、

「数えてみよ主の恵み」と呼びかけます。
たとえば歌詞には「望みも消え行くまでに…世の嵐に悩むとき…数えてみよ主の恵み…心は安きを得ん」という流れや、

「数えよ一つずつ」という励ましが歌われます。
ここが大切です。
私たちは放っておくと、自然に「悲しみ」「苦しみ」「問題」「困難」を数えます。
しかも数え方が上手いのです。
夜に布団へ入ると、脳は自動的に“反省会”を始め、未解決の課題だけを拡大して見せます。
すると心は重くなります。
けれど聖歌が教えるのは、現実逃避ではありません
「問題がない」と言うのではなく「問題だけがすべてではない」と言うのです

嵐の中でも、神の恵みが確かに“点”として散りばめられている。
その点を一つずつ拾い集めると、やがてになり、守りの物語になります。
そしてこの営みは、『試練をくぐった者の告白と同じ方向を向いています。
願い通りではなかった。でも、必要なものは与えられていた。
あとで数え直してみたら、恵みがそこかしこに隠れていたということになります。

【実際的な学び:恵みを数える信仰を育てる7つの方法】

1)「1日3つ」ミニ恵みを数える(小ささで勝つ)

大きな奇跡だけを数えようとすると、苦しい日はゼロになります。だからミニ恵み”を数えます。

:温かいお茶が飲めた。今日も目が覚めた。

助けてくれる人の存在を思い出せた。

祈れた。

涙が出た(心が生きている証拠)。

誰かの言葉が刺さらずに済んだ。

深呼吸できた。
小さな恵みは、神の愛の“点滅灯”です。点が増えるほど、闇の中でも道が見えます。

2)「試練→益」変換ノートを書く(裏側を言語化する)

紙を二つに分けて、左に「今つらいこと(事実)」、右に「そこに潜む恵みの可能性(まだ仮)」を書きます。
ポイントは“断定しない”ことです。「きっと益だ!」と言い切れない日もあるからです。
ただ「益になり得る余地」を残す。それだけで、心は閉じきらずに済みます。

3)祈りを「願い」だけで終わらせず、「委ね」に進める

願うことは悪くありません。

でも願いが叶わない時、祈りが止まってしまう。

そこで次の一文を足します。
「主よ、もし違うなら、あなたの御心の形で私を守り、導いてください。」
この一文が、『試練をくぐった者の告白の告白者の歩んだ道です。
欲しいものは違っても、必要なものは神が知っておられる。

4)「恵みの棚卸し」10項目で、信仰の足場を確認する

次の10個のうち、今日はどれが印象に残っていますか。
①いのち
②救い(十字架)
③御言葉
④祈り
⑤教会/交わり
⑥日ごとの糧
⑦身体の一部の健康
⑧守られた危険
⑨赦し
⑩明日への希望。
全部そろっていなくてもいいのです。どれか一つでも「残っている」なら、神は働いておられます。

5)詩篇のように“嘆き”も祈る(信仰の現実味)

恵みを数えると言っても、悲しみを押し込める必要はありません
嘆きは不信仰ではなく、「神に向かって語っている」という意味で信仰です。
涙と感謝は、同じ心に同居できます。むしろ、嘆きを通してこそ「神は聞いてくださる」という愛が深く刻まれます。

6)しんどい瞬間の「3つの質問」で、視点を少しだけ回復する

夜や不安の波が来た時、次の順で自分に聞きます。
①今、私が失ったものは何か。
②それでも、私に残っている恵みは何か。
③主よ、今日一日の“次の一歩”は何ですか。
すると心は「全部だめだ」から「次の一歩へ」と戻ってきます。
信仰は、大逆転よりも“一歩”で育ちます。

 

7)兄弟姉妹で「恵みの数え直し」をする

自分一人だと、どうしても暗い面だけが大きく見えます。
だから信頼できる兄弟姉妹に「今週の恵みを一つだけ(思い出して)聞いてください」とお願いする。
すると、

自分では気づかなかった恵みが言語化されます。
恵みは“分かち合うと増える”性質があります。

【まとめ:数える対象を変えると、心の向きが変わる】

私たちは、悲しみや問題を数えて落ち込む者です。
けれど、聖歌604は「恵みを数えよ」と命じます。
これは気分転換ではなく、信仰の選択です
試練をくぐった者の告白は、それを“人生の終わりの結論”として証ししています。
欲しいものは得なかった。しかし、必要なものは与えられていた。

だから私は祝福されている。
そして、いちばん大きい恵みは【イエスキリストの十字架】にあります。
状況が変わらない日も、神の愛そのものは変わりません。

そしてもう一つの大きな大きな恵みは【イエスキリストの復活】にあります。

それは、愛なるイエスキリストが今ともに生きて下さっている】という恵みです。
だから私たちは今日も、恵みを一つずつ数え直せます。
小さな恵みを拾う手は、実は“神の大きな愛”につながっています。
もし可能なら、落ち込む日にこそこの賛美を小さな声で口ずさんでください。
言葉が心を引っ張り心が視線を変え視線が信仰を立て直します

【祈り(結び)】

尊き父なる神様、
私たちは困難を数えて心が沈みやすい者です。
けれど、あなたの恵みを数える目をください。
願いが叶わない時も、あなたが私たちを育て、守り、導いておられることを信じさせてください。
今日の小さな恵みを一つずつ受け取り、感謝と希望を失わない者としてください。
尊きイエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事