
この記事の目次
「立って、ベテルへ(初めの愛に帰ろう)」偶像を手放し、礼拝者として歩きなおすヤコブ
混乱の直後、神はヤコブを裁くより先に「ベテルへ」と招かれました。
創世記35章は、失敗のあとでも変わらない神の愛と導きを、やさしく、しかし確かに教えてくれます。
導入:混乱のあとに聞こえてくる、神の声
「立って、ベテルへ」と言われると、元気な人に向けた命令のように聞こえるかもしれません。
でも創世記35章の「立って」は、倒れかけている者に向けた“救いの呼びかけ”です。
なぜなら、35章の直前は34章だからです。
そこには、人の痛み、怒り、ねじれ、報復、そして崩れていく関係が描かれています。
読むだけで胸が重くなる場面です。
もし私たちが神の立場なら、「もう無理だ」「見放したい」と思っても不思議ではありません。
ところが神は違いました。
神は裁きで終わらせず、帰る道を開きます。
35章の第一声:神は“裁く前に招く”
「立って、ベテルに上り…祭壇を築きなさい」
神はヤコブにこう言われます。
「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。…祭壇を築きなさい。」
ここに神の愛の形が見えます。
神は失敗を「なかったこと」にしてごまかしません。
しかし失敗したからといって、ヤコブを切り捨てません。
神の愛は、ダメな者を見放す愛ではなく、
「戻って来なさい」と呼び戻す愛です。
そしてこの招きは、私たちにも向けられています。
私たちも混乱の中で、まず「状況の整理」をしたくなります。
問題を片づけ、心を整え、落ち着いてから祈ろう、礼拝しよう、と考えます。
でも神は言われます。
「整ってから来なさい」ではありません。
まず
「来なさい。わたしの前で整え直しなさい」です。
ベテルとは何か:信仰の原点、「神の家」
ベテルは、ヤコブが初めて神に出会った場所です。
兄エサウから逃げ、荒野で一人眠った夜、神は夢の中で現れ、
「わたしはあなたとともにいる。あなたを見捨てない」と約束されました。
ヤコブはその場所を「ベテル(神の家)」と名づけました。
つまり神はこう言っているのです。
「混乱の中で、まずするべきことは、頭の中の整理ではない。
信仰の原点に戻り、わたしを礼拝しなさい。」
礼拝は、立派な人が集まる場所ではありません。
罪を悔い改めた者が帰る場所です。
傷ついた心が戻る場所です。
神は、そこへ私たちを招いてくださいます。
神が命じられた三つ:帰る道は具体的
ヤコブは家族に言います。
「異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。」と。
この三つは、神に帰る道を“具体的に”示してくれます。
①「異国の神々を取り除け」:偶像を手放せ
ヤコブの家には偶像が入り込んでいました。
ラケルが持って来たテラフィムのようなものがあったのかもしれません。
また、シェケムの事件の後、略奪品に混じっていたのかもしれません。
いずれにしても、ここに一つの現実があります。
信仰者でも、知らず知らず心が神から離れることがある。
偶像は、木や石の像だけではありません。
「神より大きくなってしまうもの」です。
【神様より優先順位を上に置いてしまったものです。】
たとえば。
不安。
お金。
人の評価。
自分の正しさ。
怒り。
楽しみ。
責任。
それ自体が悪いとは限りません。
でも心の中心に座ってしまうと、私たちは縛られます。
神が「手放しなさい」と言われるのは、責めるためではなく、自由にするためです。
たとえるなら、両手に荷物を抱えたままでは、子どもを抱き上げられません。
偶像を握りしめる手をほどくとき、神の恵みを受け取れる手が空くのです。
②「身をきよめよ」:正直に神の前に出る
「きよめよ」は「完璧になれ」という意味ではありません。
神の前で正直になれ、ということです。
隠さず、飾らず、いまの心をそのまま持って行くことです。
「主よ、私は怒っています。助けて下さい。」
「主よ、私は恐れています。助けて下さい。」
「主よ、私は疲れています。助けて下さい。」
「主よ、私は自分が嫌になっています。助けて下さい。」
そんな祈りでいいのです。
きよめとは、自分自身の力で自分を洗おうとすることではありません。
神が私たちを洗い、もう一度歩けるようにしてくださる恵みです。
③「衣を着替えよ」:心の向きを切り替える
着替えは、心の向きの切り替えです。
古い習慣、古い考え方、古い生き方を脱ぎ、
新しい歩みを“着る”ことです。
たとえるなら、泥だらけの服で部屋に入った子どもに、親は言います。
「叱る前に、まず着替えよう。さあ、こっちへおいで。」
神も同じです。
「そのままではなく、新しく歩き直せるように整えよう。」
神は、私たちが“古い自分”に戻るのを望んでいません。
イエスキリストを信じて新しい人を着たものです。そして新しくつくられた者として生きる道を用意してくださるのです。
旅の守り:神の導きは、危険の中で働く
ヤコブたちは偶像を埋め、ベテルへ向かいます。
しかし状況は安全ではありません。
彼らは地元の人々の恨みを買っていました。
追われてもおかしくありません。
それでも神は守られます。
ここに導きの現実があります。
神の導きとは、道がいつも平らになることではありません。
神の導きとは、危険が消えることではありません。
けれど、神がともにおられ、必要な守りと助けを与え、進むべき道へ導いてくださることです。
私たちの人生も同じです。
「問題が全部消えたら前に進む」ではなく、
「神がともにおられるから、一歩進める」のです。
ベテルでの再確認:神は“名前を呼び直す”
「イスラエルが、あなたの名となる」
ベテルで神はヤコブに語られます。
「あなたの名はヤコブ。しかし…イスラエルがあなたの名となる。」
これは単なる呼び名ではありません。
神が「あなたはもう、昔のままではない」と宣言される言葉です。
「わたしがあなたを変えた。だから古い自分に戻るな。」
失敗した者を捨てるのではなく、
新しく生き直す道を与える。
ここに神の愛があります。
約束は取り消されない:恵みの土台
神はアブラハムとイサクに与えた祝福の約束を、ヤコブにもう一度語られます。
ヤコブはその祝福にふさわしい人だったでしょうか。
むしろ問題だらけでした。
それでも神は約束をやめません。
これが恵みです。
神の愛は、
「あなたが立派だから愛する」ではなく、
「わたしがあなたを選んだから愛する」愛です。
私たちは揺れます。
でも神の約束は揺れません。
揺れる者を抱きとめ、原点へ戻し、また歩かせる。
それが主の導きです。
今日の私たちへの適用:礼拝者として歩き直す
①混乱のときほど「ベテルへ」戻る
問題が片づいてからではありません。
問題を抱えたまま、神の前へ行きましょう。
礼拝と祈りは、心が整っている人のごほうびではなく、
心が崩れた人の“帰る場所”です。
②偶像を一つづつ手放しましょう。
今日、あなたの心を支配しているものは何でしょうか。
不安でしょうか。
怒りでしょうか。
人の評価でしょうか。
疲れでしょうか。
神に正直に言ってみましょう。
「主よ、これを握りしめています。」
手放すとき、神は代わりに平安と導きを与えてくださいます。
③短い礼拝を日常に取り戻す
礼拝は日曜日だけの行事ではありません。
神を中心に置き直すことです。
短い祈りでもいい。
短い聖句でもいい。
一日のどこかで、神を見上げる時間を取り戻しましょう。
結び:最悪のあとでも、扉は閉じられない
神は、シェケムの混乱の直後にヤコブを呼びました。
つまり、最悪のあとでも、神は扉を閉じないということです。
むしろこう言われます。
「立って、ベテルへ。」
私たちは完成された人の物語を歩もうとしているのではありません。
造り変えてくださる神の物語を生きています。
今日も主は招いてくださいます。
「立って、わたしのもとへ帰って来なさい。わたしがあなたとともにいる。」
この愛と導きに信頼して、
もう一歩、礼拝者として歩き直していきましょう。
そして、私たちを呼び戻し続ける主の栄光が、あなたの歩みを通して現されますように。

