(クリスチャン向け)イエスキリストの【ゲッセマネの祈り】の深い意味

この記事の目次

「ゲッセマネの祈り」から見る「主イエスの愛」

導入

今夜、私たちはゲッセマネの園に立ちたいと思います。
そこは、花が咲く明るい園ではありません。
十字架を目前にした主イエスが、深い悲しみと苦しみの中で祈られた場所です。
福音書を見ると、主イエスはそこで、ひれ伏すようにして祈られました。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのようになさってください」と。
この祈りは、私たちに大切なことを教えます。
それは、私たちの救いは、軽いものではなく、主イエスの深い苦しみの中で成し遂げられたということです。
そして同時に、その苦しみの奥に、測り知れない愛があったということです。
ゲッセマネは、主イエスが弱かった場所ではありません。
むしろ、私たちを救うために、最後まで従い抜かれた愛の場所なのです。

展開

1. ゲッセマネの祈りは、救いの重さを明らかにする

主イエスは「この杯を取りのけてください」と祈られました。
この「杯」とは、ただ肉体の苦しみだけではありません。
聖書で「杯」は、しばしば神の怒り、罪に対するさばきを表します。
つまり主イエスは、十字架において、私たちが受けるべき罪の裁きを、身代わりに受けようとしておられたのです。
だからこそ、その杯はあまりにも重かったのです。
私たちは自分の罪を軽く見てしまうことがあります。
少し怒った、少し妬んだ、少し神様を後回しにした。
そのように考えてしまいます。
しかし、罪の重さがどれほど深いかは、ゲッセマネで苦しまれた主イエスを見るとき、初めて分かります。
救いは安いものではありませんでした。
神の御子ご自身が、その身をもって代価を払ってくださったのです。

2. 主イエスは四つの深い苦しみを負われた

① 肉体の苦しみ

主イエスはまことの神であり、同時にまことの人として来られました。
ですから十字架の苦しみは、本当の苦しみでした。
むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、釘を打たれ、極限の痛みを受けられました。
ゲッセマネでは、その十字架を前にして、すでにその苦しみの重さが魂に迫っていました。
汗が血のしずくのように落ちるほどの祈り。
それは、主の苦しみがどれほど真実であったかを示しています。

② 侮られ、ののしられる精神の苦しみ

主イエスは、人々から尊ばれるどころか、ばかにされ、ののしられました。
救い主であるのに、「自分を救ってみろ」とあざけられました。
愛そのものである方が、憎しみを受けたのです。
詩篇22篇には、救い主の苦しみを思わせる叫びが記されています。
その中には、人々にさげすまれ、あざけられる姿が描かれています。
主は、肉体だけでなく、心においても深く傷つけられました。

③ 罪なき方が、罪人の立場に立たれた苦しみ

ここが福音の中心です。
主イエスには、何一つ罪がありませんでした。
それなのに、私たちの罪を背負う者として十字架に向かわれたのです。
イザヤ書53章には、「彼が私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」と語られています。
また、「彼は私たちのそむきの罪のために刺され」とあります。
これは、救い主が私たちの身代わりとなることを前もって示している、驚くべき預言です。
本来、裁かれるべきは私たちでした。
本来、杯を飲むべきは私たちでした。
しかし主イエスが、その場所に立ってくださったのです。

④ 父なる神に見捨てられる苦しみ

そして最も深い苦しみはここにあります。
十字架の上で主イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
これは詩篇22篇のことばでもあります。
永遠から父と一つであられた御子が、私たちの罪を負う者として、その恐るべき孤独と見捨てられる苦しみを引き受けられたのです。
私たちが神に受け入れられるために、主が捨てられた。
私たちが神との交わりに入るために、主がその断絶の痛みを負ってくださった。
これが十字架の奥義です。

死海写本が語ること

ここで、死海写本のことにもふれたいと思います。
死海写本とは、イエス様がお生まれになる前から存在していた旧約聖書の写本群です。
その中にはイザヤ書も含まれています。
これは何を意味するのでしょうか。
それは、イザヤ53章のような救い主の苦しみの預言が、後の時代に作られたのではなく、すでにイエス様以前から記されていたということです。
つまり神様は、救いを思いつきでなさったのではありません。
最初から、御子による救いの道を備えておられたのです。
ゲッセマネも、十字架も、偶然ではありません。
神様の救いのご計画の中で、主イエスはその道を進んでくださったのです。

適用

では、このゲッセマネの祈りは、私たちに何を語るのでしょうか。

1. 私たちの罪は、それほど重い

もし罪が軽いものなら、神の御子がここまで苦しまれる必要はありませんでした。
しかし主がこれほど苦しまれたのは、私たちの罪が本当に深く、私たち自身には解決できないからです。
ですから私たちは、自分の力で自分を救おうとするのをやめて、主の十字架の前にへりくだるべきです。

2. それでもなお、主は私たちを愛しておられる

主イエスはゲッセマネで逃げませんでした。
「みこころのようになさってください」と祈り、十字架への道を進まれました。
なぜでしょうか。
あなたを愛しておられたからです。
あなたが弱くても、罪深くても、何度も倒れても、主はあなたを見捨てないために、ご自分が見捨てられる苦しみを受けてくださいました。
これほどの愛が、他にあるでしょうか。

3. 苦しみの中で祈る人に、主は寄り添ってくださる

私たちも人生の中で、「この杯を取りのけてください」と祈る時があります。
病の杯、孤独の杯、不安の杯、涙の杯。
しかしその時、私たちはひとりではありません。
主イエスご自身が、先にゲッセマネで祈ってくださったからです。
主は、苦しみの分からないお方ではありません。
祈りながら震える私たちを、深く理解してくださるお方です。

結び

ゲッセマネの祈りは、愛の祈りです。
主イエスは、私たちを救うために、あの杯を受けてくださいました。
父のみこころに従い、十字架の道を進んでくださいました。
その結果、私たちは赦しを受け、神の子とされ、永遠のいのちの希望にあずかることができるのです。
ですから、今日、私たちは主の前に感謝してひれ伏したいと思います。
「主よ、あなたは私のために、そこまでしてくださったのですね」と。
そしてこの主を、心から信じ、愛し、従っていきたいと願います。

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