【聖書通読】(第9週3日目)栄光の火が下り、復活の朝が明ける。神は礼拝を完成される。レビ記9章/マルコ16章

この記事の目次

【聖書通読】第9週3日目栄光の火が下り、復活の朝が明ける。神は礼拝を完成される。

レビ記9章/マルコ16章

今日の通読は、レビ記9章とマルコ16章です。
一方は祭司の務めが始まり、神の栄光が現れる場面です。
もう一方は、主イエスが復活され、墓が空であったことが告げられる場面です。
時代も場面も違いますが、どちらにも共通するのは、「神ご自身が救いの道を完成される」ということです。

レビ記9章では、

アロンが初めて祭司として民の前に立ちます。
罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえがささげられます。
ここで示されているのは、神の前に出るには、罪が扱われ、献身があり、感謝と交わりが必要だということです。
礼拝は気分や勢いで成り立つものではなく、神が定められた道に従って近づくものです。
そして最後に、モーセとアロンが会見の天幕から出て民を祝福すると、主の栄光が現れます。
さらに主の前から火が出て、祭壇の上のささげ物を焼き尽くしました。
民は歓声を上げ、ひれ伏します。
ここで大切なのは、礼拝の確かさは人の熱心さではなく、神が受け入れてくださるかどうかにあるということです。
火が下ったのは、「この礼拝をわたしは受け入れる」という神のしるしでした。
では、今の私たちは、どうすれば神に受け入れられる礼拝をささげられるのでしょうか。
その答えがマルコ16章です。

その答えがマルコ16章です。

女たちは、悲しみを抱えて墓に向かいます。
「だれが石を転がしてくれるだろう」と心配しています。
しかし着いてみると、石はすでに転がされていました。
そして御使いは告げます。
「イエスはよみがえられた。ここにはおられない。」
これが福音の中心です。
十字架で終わったように見えた救いの御業は、復活によって完成しました。
レビ記9章では、神の火が礼拝を受け入れたしるしでした。
マルコ16章では、空の墓が、父なる神が御子イエスのささげ物を完全に受け入れられたしるしです。
もしキリストがよみがえられなかったなら、十字架は悲劇で終わります。
しかし復活されたので、
十字架は罪の赦しを成し遂げた救いの出来事であることが確定したのです。
レビ記のささげ物が繰り返し必要だったのに対して、キリストは一度で完全な救いを成し遂げられました。
さらにマルコ16章では、「弟子たちとペテロに告げなさい」と語られます。
ここには深い慰めがあります。
ペテロは主を知らないと言ってしまいました。
弟子たちも逃げました。
それでも復活の知らせは、彼らを切り捨てるためではなく、もう一度呼び戻すために届けられます。
神の救いは、人の失敗で終わらないのです。
礼拝もまた、完全な人のために備えられたのではなく、赦された罪人が神に近づくために備えられたのです。
私たちは時々、「自分の礼拝は足りない」「自分の信仰は弱い」と感じます。
それはある意味で正しい気づきです。
私たちは本来、自分の力で神の前に立てる者ではありません。
しかし、その気づきだけで終わる必要はありません。
見つめるべきなのは、自分の足りなさではなく、神が備えてくださった道です。
神に受け入れられる根拠は、私たちの十分さではなく、十字架と復活のキリストにあります。

今日、神様が私たちに望んでおられるのは、

自分の頑張りではなく、神が受け入れてくださったキリストのささげ物に信頼することです。
そして、失敗してもなお呼んでくださる復活の主の声に応えることです。
今日の問いはこれです。
あなたは、自分の足りなさばかりを見て、神の前に出ることをためらっていないでしょうか。
主は、あなたの礼拝の足りなさよりも大きな恵みを備えておられます。
栄光の火を下された神は、復活の朝をもってあなたが大胆に神に近づく道と礼拝を捧げる特権を完成してくださいました。
だから今日も、恐れることなく感謝をもって、大胆に主の前に立って感謝と喜びの礼拝を捧げましょう。

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事