自由を求めた青年が見つけた本当の自由、新島襄と福音の出会いの物語

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自由を求めた青年が見つけた本当の自由、新島襄と福音の出会いの物語

新島襄という名前を聞くと、多くの人は「同志社を創立した立派なクリスチャン」「志の高い偉人」という印象を持つと思います。

たしかにそれは本当です。けれど、新島襄も最初から人生の答えを全部知っていたわけではありませんでした。

彼もまた、時代の重さの中で、自由を求め、真理を求め、人生の意味を求めていた一人の青年でした。同志社の資料でも、新島は激動する日本の将来を憂い、国を思いながら新しい道を模索していた人物として描かれています。

当時の日本は、まだ封建的な空気が濃く残る社会でした。身分、しきたり、閉ざされた学びの世界、その中で新島は息苦しさを覚えていたのでしょう。彼は自由を求めました。ただ好き勝手に生きたいという意味の自由ではなく、「真理を知りたい」「本当に人を生かすものを知りたい」という渇きを持っていたのです。

そしてその求めが、ついに国禁を犯してまで海を渡るという決断へと彼を向かわせました。21歳での脱国は、ただの冒険ではなく、魂の叫びでもあったのです。

私たちも似たような問いを抱くことがあります。
「私は何のために生きているのだろう。」
「この人生には意味があるのだろうか。」
「頑張っても、心の奥はなぜ満たされないのだろう。」
外側では忙しく生きていても、心の深いところで、行き先のわからない船のように漂ってしまうことがあります。

新島襄もまた、そのような問いの中にいた青年だったのです。これは、ただ偉人の話ではなく、今の私たち自身の話でもあります。

国を出た青年を、神様は海外の地で導かれた

新島襄は1864年に脱国し、のちにアメリカへ渡りました。そこで彼は、ハーディー夫妻をはじめとする人々の助けを受けました。同志社関係資料では、ハーディー夫妻が新島を物心両面で支えた恩人として語られています。

つまり新島の歩みは、ただ「自分の力で切り開いた成功物語」ではありません。彼が海を越えたその先には、すでに神様の備えがあったのです。

ここに大きな慰めがあります。
私たちは、自分の人生を自分一人で何とかしなければならないと思いやすいものです。けれど神様は、私たちが知らないところで道を備えておられます。

新島がまだその意味を十分にわからないうちから、神様は出会うべき人を備え、学ぶ場を備え、信仰へ導く環境を備えておられました。

人には偶然に見えることが、神様のご計画の中では「恵みの布石」であることがあります。

私たちも後になってから、「あの時の出会いがあったから」「あの回り道があったから」「あの苦しみさえ無駄ではなかった」と思うことがあります。神様は、私たちが見えていないところでも働いておられるのです。

新島襄の物語は、そのことを静かに、しかし力強く教えてくれます。

新島襄はキリストの福音の中に本当の自由を見つけた

生きる目的が解らず、存在する意義すらもわからずに悩んで、その答えをはるかかなたの異国に求めました。

そして、聖書に出会います。

まだクリスチャンでなく、生きる目的や存在する意味がわからずに悩み苦しんでいた時に、

聖書の一番最初の言葉「初めに神が天と地を創造した。」という御言葉を見ました。

そして新島襄ははっとしたのです。

それは、神様が全ての原因であるということと神様が全ての物を創造されたということを知り、作られたものである自分も存在する意味があると気が付き自分自身も神様によって造られ

その神様のために生きることが生きる目的であり存在する意義であると知って嬉しくなったことが聖書との出会いであり、クリスチャンになるきっかけだったのです。

海外で学び、導かれる中で、新島襄はキリストの福音に出会い、洗礼を受けました。同志社の公式情報でも、彼がアメリカ・ヨーロッパで学ぶ中でキリスト教の洗礼を受けて帰国したことが明記されています。

これは、単に外国の文化を学んだということではありません。

彼の人生の中心が変わったということです。

新島が見つけたのは、ただの神様についての知識ではありませんでした。
神様にある本当の自由です。
神様にある本当の希望です。
神様にある本当の使命です。

自分勝手な自由とキリストにある自由

人は自由を求めます。けれど多くの場合、「縛られないこと」が自由だと思っています。

しかし聖書が語る本当の自由は、ただ好き勝手に生きることではありません。罪から解放され、神様との正しい関係に生かされることです。

神様から離れて生きる人間は、一見自由に見えても、実は不安や罪や空しさに縛られています。

けれどキリストの福音は、その鎖を断ち切ります。新島襄はその自由を見つけたのです。

ここで福音の中心をはっきり受け取りたいと思います。
神様は、私たちを目的もなく造られたのではありません。
聖書は「初めに神が天と地を創造した」と語ります。つまり神様がすべての始まりであり、私たちもまた神様によって造られた存在です。ならば、造られたものである私たちには意味があります。偶然に生まれたのではなく、神様の御心の中で存在しているのです。そして本当の生きる意味は、神様のために生きることの中にあります。

これは人を縛る言葉ではなく、人を解放する言葉です。なぜなら、そこではじめて「自分は何のために存在しているのか」がわかるからです。これはヨハネ1章が語る「ことばは人となって来られた」という福音とも響き合います。神様は遠くから命じるだけでなく、キリストにあって私たちのところに来てくださったのです。

新島襄は福音を自分だけのものにしなかった

新島襄が本当に感動的なのは、自分が受けた福音を、自分一人の慰めや満足で終わらせなかったことです。1875年、彼は京都に同志社英学校を創立しました。同志社の公式説明でも、新島は学問の探求とともに、キリスト教を徳育の基本として人格を陶冶する教育を目指したとされています。さらに「一国の良心」を育てたいという願いを持っていたことも繰り返し語られています。

ここに新島襄の信仰の美しさがあります。
神様に救われた人は、その恵みを周りに流したくなるのです。
自分だけが助かればよい、ではなく、次の世代にもこの光を届けたい。
新島はまさにそういう人でした。

そしてその根っこには、教育への情熱以上に、キリストへの信仰がありました。人を本当に立たせるのは、ただ知識ではない。良心を持ち、自由を愛し、真理に立って生きる人を育てなければならない。その土台に、神のことばが必要だ。新島襄はそのことを深く知っていたのです。

新島襄の物語が今の私たちに語ること

新島襄の物語は、「昔の立派な人の話」で終わりません。
今も私たちに問いかけています。

あなたは何のために生きていますか。
あなたは本当の自由を知っていますか。
あなたは、神様に造られた者として生きる喜びを知っていますか。

多くの人が、生きる意味を探しています。
頑張っても空しい。
自由を求めても苦しい。
何かが足りない。
新島襄も、その問いの中を通りました。
そして福音の中に、本当の答えを見つけました。

それは私たちにも開かれています。
キリストは新島襄だけの救い主ではありません。
今を生きる私たち一人ひとりの救い主です。
罪という底なし沼の中でもがけばもがくほどに罪に沈んでいくそのような私たちのためにイエスキリストは、十字架にかかり、よみがえられた主です。
神様の前に自分自身の神様に対する罪を悔い改め、このお方(十字架で身代わりに死に、三日目に復活してくださった救い主イエスキリスト)を信じる時、人は本当の意味で新しくされます。
生きる目的に向かうことが出来ます。
自分の存在の意味(造り主の神のために生きるということ)を知り、その目的の為に生きることができるのです。
そして「神様のために生きることこそ本当の喜び」と知るようになるのです。

まとめ――自由を求めた青年は、主にあって本当の道を見つけた

禁制を破ってまでも海外に自由を求めた青年、新島襄は、キリストにあって本当の自由の道と生きる目的を見つけたのです。
彼は、ただ外の世界へ出て視野を広げた人ではありません。
神様に出会い、福音によって心の中心を変えられたのでした。
そしてその恵みを、自分だけのものにせず、次の世代へ届けようと生きた人でした。

私たちもまた、同じ福音に招かれています。
神様に造られた者として、神様のために生きる喜びへと招かれています。
今もし生きる意味がわからずにいるなら、どうかキリストを見上げてください。
今もし自由を求めているなら、どうか福音の中にある本当の自由に触れてください。
新島襄を導かれた神様は、今も生きておられます。
そして、あなたの人生にも本当の道を示してくださるのです。

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