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【聖書通読第8週4日目】赦しは代価で、礼拝は真実で|主が求める「内側の実」(レビ記4章・マルコ11章)
レビ記4章(罪のためのささげ物)
解説
レビ記4章は「罪のためのささげ物」を扱う章です。
ここで焦点になるのは、意図的な反逆だけでなく「気づかずに犯した罪」や「知らないうちの過ち」も、神の前では軽くないという点です。祭司、会衆の代表、指導者、一般の人と、立場ごとに規定が示されます。責任の重さが違うからです。神様は、影響の大きい立場ほど、より厳密に向き合うことを求められます。
ささげ物には血が伴い、血は祭壇に注がれ、ある部分は焼かれます。これは、罪がいのちの問題であり、赦しには代価が必要であることを教えます。同時に、神様が赦しの道を具体的に備えておられることも示します。罪が明らかになったとき、神は「隠せ」「ごまかせ」とは言われません。「告白し、赦しを受けよ」と道を示されます。
新約の光で見るなら、罪のためのいけにえは、やがてキリストの十字架によって完成します。私たちは動物をささげませんが、赦しは「軽いもの」ではなく、主が血を流してくださったほど重い恵みです。
神様が望んでおられるのは、
罪を小さく扱わず、光の中に出すことです。
今日の私への適用はこうです。私は「悪気はないから大丈夫」としている言葉や態度がないでしょうか。
気づいたときに、言い訳より先に「主よ、赦してください」と向き直れるでしょうか。神様は責めるためでなく、回復させるために罪を示されます。赦しを受け取り、同じ過ちを繰り返さないよう、心の向きを整えることを主は望んでおられます。
マルコ11章(入城・宮きよめ・祈りの教え)
解説
マルコ11章は、主イエスがエルサレムに入られ、十字架への道が決定的に進む章です。人々は「ホサナ」と叫び、王のように迎えます。しかし主が向かわれた中心は、称賛の舞台ではなく神殿でした。そこで主は宮をきよめ、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と語られます。神殿が礼拝の場ではなく、利益や都合の場に変わっていたからです。
続く、いちじくの木の出来事は象徴的です。葉はあるのに実がない。見た目は立派でも、神が求める実がない信仰への警告として読めます。さらに主は祈りについて、「疑わず信じること」「赦すこと」を語られます。祈りは願いを並べるだけでなく、神への信頼と、他者への赦しを伴うべきだということです。
神様が望んでおられるのは、
外側の宗教ではなく、内側から神に向く真実です。
今日の私への適用はこうです。私の信仰は「葉」ばかり増えていないでしょうか。礼拝や奉仕、知識はあるのに、祈りの深さ、悔い改め、赦しの実が薄くなっていないでしょうか。
主は私を責めたいのではなく、祈りの家へ戻したいのです。
心の中の「神殿」をもう一度きよめ、主を中心に据え直すことを望んでおられます。
今日、主に向かって短くても祈り、主に助けを求め、神の前に真実な心で立ち戻りましょう。
