律法ののろいから救い出すキリストの恵み ガラテヤ3章13節が語る福音
 律法ののろいから救い出すキリストの恵み   

この記事の目次

ガラテヤ3章13節が語る福音

ガラテヤ3章13節には、福音の大事な中心がぎゅっと詰まっています。

「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられる者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」

この御言葉は、少し難しく聞こえるかもしれません。
でも、ここにはとても大切なことが書かれています。

それは、
私たちは自分では救われない。けれどキリストが私たちの代わりに十字架でのろいを負ってくださったので、恵みによって救われる
ということです。

今日はこのことを、できるだけわかりやすく見ていきたいと思います。

ガラテヤ3章13節は、福音の中心を力強く語っている

「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって」とはどういう意味か

まず驚かされるのは、この言葉です。

「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって」

これは、イエス様がご自分の罪のためにのろわれた、という意味ではありません。
イエス様には罪がありません。
聖いお方です。
正しいお方です。

それなのに、私のために、私の代わりに、私のろいを引き受けてくださったのです。

つまり十字架とは、ただ立派な愛の見本ではありません。
ただ苦しみに耐えた英雄の話でもありません。
本来なら私たちが受けるべきものを、キリストが身代わりに受けてくださった場所なのです

この一節には十字架の福音が凝縮されている

この一節には、福音の中心があります。

  • 私たちは律法ののろいの下にいた
  • 自分ではそこから出られなかった
  • キリストが代わりにのろいを負ってくださった
  • だから私たちは贖われた

これが福音です

福音とは、
「あなたも頑張りなさい」
ではありません。

福音とは、
「キリストがあなたのためにしてくださった」
という知らせです。

律法は何をするのか――律法は人の罪を明らかにする

律法は神様の聖さと正しさを示す

では、律法とは何でしょうか。

律法とは、神様の聖さと正しさを示すものです。
神様がどれほどきよいお方であるか、何を良しとされ、何を罪とされるかを教えてくれます。

律法は悪いものではありません。
むしろ大切なものです。
神様の基準を示してくれるからです。

律法は「あなたはできていない」と人に知らせる

けれど律法をよく見れば見るほど、私たちは気づかされます。

「自分は神様の前に正しくない。」
「神様を心から愛しているとは言えない。」
「隣人を自分のように愛しているとも言えない。」
「結局、自分中心だ。」

律法は、私たちに
「あなたはできていない」
とはっきり知らせるのです。

律法の前に立つ時、人は自分の罪深さを知らされる

たとえるなら、律法は鏡のようなものです。
鏡を見ると、顔についている汚れが見えます。
でも鏡が顔を洗ってくれるわけではありません。

律法も同じです。
律法は私たちの罪を見せてくれます。
でも、律法そのものが私たちをきよめたり、救ったりするわけではありません。

律法の役割は、
自分には救いが必要だ
と教えることなのです。

「律法ののろい」とは何か

律法を破った者は神様の前で有罪である

ここで出てくる「律法ののろい」とは何でしょうか。

それは、律法を破った者が神様の前で有罪であり、裁きの下にあるということです。

律法は、守れたら祝福、破れば責任を問う、という性質を持っています。
そして問題は、だれ一人として律法を完全には守れないことです。

外側を少し整えることはできても、心まで完全にはできません。
ですから律法の前に立つと、人はみな有罪なのです。

のろいとは、神様の裁きの下にある状態である

「のろい」という言葉は強いです。
でもここで言われているのは、神様の前で罪人としてさばきの下にある、ということです。

人は、「私はそんなに悪くない」と思いやすいです。
でも問題は、他人と比べることではありません。
神様の聖さの前にどうか、ということです。

その基準の前では、だれも胸を張れません。

人は自分の力ではそののろいから抜け出せない

ここがつらいところです。
自分で頑張れば何とかなるならよいのですが、そうではありません。

一度罪を犯した人が、
「これから頑張りますから帳消しにしてください」
と言っても、過去の罪が消えるわけではありません。

つまり、私たちは自分の力では、こののろいから抜け出せないのです。

キリストは私たちの代わりにのろいを負われた

「木にかけられる者はみなのろわれている」の意味

ガラテヤ3章13節は、旧約聖書の言葉を引用しています。

「木にかけられる者はみなのろわれている」

これは、十字架につけられたキリストが、のろいを負う者の位置に立たれたことを示しています。

もちろん、イエス様自身が悪いことをしたからではありません。
私たちの罪を背負って、その立場に立ってくださったのです。

十字架はキリストが私たちの身代わりとなった場所

十字架は、ただの処刑方法ではありません。
そこは、身代わりの場所です。

私たちが本来受けるべき裁き。
私たちが負うべきのろい。
それをイエス様が引き受けてくださいました。

たとえるなら、本来こちらに飛んでくるはずの恐ろしいさばきを、キリストが前に立って全部受け止めてくださったようなものです。

だから、救いはキリストにあります。
自分にではありません。

私たちが受けるべき裁きを、キリストが引き受けてくださった

ここに神様の恵みがあります。

私たちが正しかったからではありません。
私たちに資格があったからでもありません。
むしろ逆です。
私たちは裁きを受けるしかない者でした。

でも、その私たちのために、キリストが十字架でのろいを負ってくださった。
これが恵みです。

ここに神様の恵みがある

私たちは救われる資格のない者だった

恵みが本当に恵みとして輝くのは、私たちがどんな者かを知る時です。

私たちは、
少し足りないだけの人ではありません。
ほんの少し手助けしてもらえれば大丈夫な人でもありません。

私たちは、神様の前で罪人です。
のろいの下にいる者です。
自力ではどうにもならない者です。

それでも神様は御子を与えてくださった

それなのに、神様は御子を与えてくださいました。

ここが福音です。

神様は、
「もっと良い人になったら助けよう」
とは言われませんでした。

そうではなく、
まだ罪人であった時に
キリストを与えてくださったのです。

これが恵みです。
受ける資格のない者に注がれる、神様の愛です。

恵みとは、受ける価値のない者に与えられる神様の愛である

恵みは報酬ではありません。
ごほうびでもありません。
売買でもありません。

恵みとは、
本来なら受けられないものを、神様がただで与えてくださることです。

そしてその中心に、キリストの十字架があります。

律法と恵みはどのように違うのか

律法は要求するが、恵みは与える

律法は言います。
「これをしなさい。」
「こうあるべきだ。」

でも恵みは言います。
「キリストがしてくださった。」
「あなたのために備えられた救いを受けなさい。」

律法は要求します。
恵みは与えます。

律法は罪を示すが、恵みは救いを示す

律法は、
「あなたは罪人だ」
と知らせます。

恵みは、
「その罪人のためにキリストが死なれた」
と知らせます。

律法は大切です。
でも律法だけでは、人は絶望するしかありません。
その絶望の先に、恵みが輝くのです。

律法は「しなさい」と語り、恵みは「キリストがしてくださった」と語る

ここをぜひ心に留めたいのです。

律法は、私たちの側に何かを要求します。
恵みは、神様の側がしてくださったことを告げます。

だから救いは、最終的に自分の頑張りにかかっているのではありません。
キリストの十字架にかかっているのです。

まとめ――キリストの恵みは律法ののろいよりも大きい

ガラテヤ3章13節は、とても重く、そしてとても明るい御言葉です。

重いのは、私たちが律法ののろいの下にいたことを示しているからです。
でも明るいのは、キリストがそののろいから私たちを贖い出してくださったからです。

律法は罪を示します。
恵みは救いを示します。

律法は、
「あなたには問題がある」
と教えます。

恵みは、
「その問題のために、キリストが十字架でのろいを負ってくださった」
と知らせます。

だから私たちは、律法によって絶望して終わる必要はありません。
その律法が示した罪の深さの先に、キリストの恵みがあるからです。

今日もこの福音を心に受け取りたいのです。

キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

これほど大きな恵みがあるでしょうか。
この恵みの中に、私たちの救いと希望があります。

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