
律法は罪を示し、恵みは救いを示す
この記事の目次
聖書が語る二つの大切な真理
聖書を読んでいると、
「律法」と「恵み」という言葉がよく出てきます。
でも、ここは少しややこしく感じやすいところです。
律法って何でしょうか。
恵みって何でしょうか。
そして、この二つはどう違うのでしょうか。
ここが見えてくると、福音がぐっとわかりやすくなります。
今日はできるだけかたくならず、やさしく、ざっくばらんに、この大切なテーマを見ていきたいと思います。
律法と恵みを正しく理解することは、福音を理解する鍵になる
「律法」と「恵み」はどちらも聖書の中で大切なテーマです
聖書には、律法も出てきますし、恵みも出てきます。
どちらも神様から来た大切なものです。
ですから、律法は悪いもので、恵みだけが良いもの、という単純な話ではありません。
律法にも役割があります。
恵みにも役割があります。
この二つの役割の違いがわかると、
「ああ、聖書はこういう流れで救いを語っているのか」と見えてきます。
律法と恵みを混同すると福音がわかりにくくなる
もし律法と恵みをごちゃまぜにすると、こんなふうに思いやすくなります。
「結局、頑張ってよい人にならないと救われないのかな。」
「神様は、できていない私をいつも責めておられるのかな。」
でも聖書の語り方は、そうではありません。
律法は、
「あなたには問題がある」
と示します。
恵みは、
「その問題のためにキリストが来てくださった」
と示します。
ここを分けて考えることがとても大切です。
恵みを知るためには、まず律法の役割を知る必要がある
たとえば、病院で検査を受けたとします。
検査は病気を治しません。
でも、どこが悪いのかをはっきり教えてくれます。
律法はそれに似ています。
律法は、私たちを救うのではなく、
私たちがどれほど救いを必要としているかを教えるのです。
なぜ聖書の最初にモーセ五書が置かれているのか
モーセ五書は聖書全体の土台となる書物です
聖書の最初には、
* 創世記
* 出エジプト記
* レビ記
* 民数記
* 申命記
というモーセ五書があります。
なぜ最初にこれが置かれているのでしょうか。
それは、ここに聖書全体の土台があるからです。
ここには、
* 神様がどのようなお方か
* 人間がどう造られたか
* 罪がどう入ったか
* 契約とは何か
* いけにえとは何か
* 聖さとは何か
そういう基本が全部入っています。
律法が最初に語られるのは、恵みの必要を明らかにするためでもあります
聖書は最初から
「あなたは大丈夫ですよ」とは言いません。
むしろ、
「神様は聖いお方ですよ」
「人は罪を犯しましたよ」
「人は自分では神様の前に立てませんよ」
と教えます。
ちょっと厳しく感じるかもしれません。
でも、これがないと恵みの意味がわからないのです。
汚れがわからなければ、洗われる喜びもわかりません。
借金がわからなければ、返済してもらうありがたさもわかりません。
律法は、恵みのすばらしさを際立たせるための大切な土台でもあるのです。
神様はなぜイスラエルを選民として選ばれたのか
イスラエルが他の民族より優れていたからではありません
ここでよく出てくる疑問があります。
「どうして神様はイスラエルを選ばれたのですか。」
聖書の答えは意外とはっきりしています。
それは、イスラエルが立派だったからではありません。
強かったからでも、賢かったからでもありません。
神様が愛し、選ばれたのです。
つまり、選びそのものがすでに恵みなのです。
選びは恵みであり、同時に世界への使命でもありました
神様はイスラエルを、ただ特別扱いするために選ばれたのではありません。
世界への祝福の通り道として選ばれたのです。
イスラエルを通して、
* 律法が与えられ
* 預言が語られ
* 礼拝が整えられ
* そして最後に救い主キリストが来られる
そのためでした。
ですから、イスラエルの選びは、閉じた選びではなく、
最終的には世界の救いへつながる選びだったのです。
律法は何をするのか――律法の役割
律法は神様の聖さと正しさを示します
律法はまず、神様がどれほど聖く、正しいお方かを示します。
神様は、
①うそを軽く見ません。
②貪りを軽く見ません。
③偶像礼拝を軽く見ません。
④罪をあいまいにはされません。
律法は、神様の基準の高さを見せます。
律法は人間の罪を明らかにします
そしてその律法に照らされると、
私たちは「自分はだめだ」と気づかされます。
人を見れば自分のほうがましだと思えることもあります。
でも神様の律法の前に立つと、そうはいきません。
神様を心から愛しているだろうか。
隣人を本当に愛しているだろうか。
自分中心ではなかっただろうか。
律法は、そういうことをはっきりさせます。
律法は救うためではなく、罪を自覚させるためにあります
ここが大事です。
律法そのものに救う力はありません。
律法は、鏡のようなものです。
顔が汚れていると教えてくれます。
でも鏡そのものが顔を洗ってくれるわけではありません。
律法は、
「あなたには救いが必要だ」
と教えるのです。
恵みは何をするのか――恵みの役割
恵みとは、受ける資格のない者に注がれる神様の愛です
では恵みとは何でしょうか。
恵みとは、
受ける資格のない者に与えられる神様の愛です。
これがとても大事です。
少し頑張ったからもらえるごほうびではありません。
神様に気に入られたからもらえる報酬でもありません。
本来なら裁きを受けるしかない罪人に、
神様が一方的に愛を注いでくださる。
それが恵みです。
恵みはキリストによって成し遂げられた救いを示します
恵みは、
「あなたも頑張りなさい」
ではなく、
「キリストがしてくださった」
と知らせます。
私たちは律法を守りきれません。
でもキリストは守り抜かれました。
私たちは罪の罰を負うべきでした。
でもキリストが十字架で負ってくださいました。
だから恵みは、
自分の良さを見るのでなく、
キリストの十字架を見るように私たちを導きます。
律法と恵みはどのように違うのか
律法は「これをしなさい」と命じます
律法は言います。
「神様を愛しなさい。」
「隣人を愛しなさい。」
「罪を犯してはならない。」
でも私たちは、その通りにできません。
ここで自分の限界にぶつかります。
恵みは「キリストがしてくださった」と告げます
恵みは言います。
「あなたの代わりに、キリストが来られた。」
「あなたの罪のために、キリストが死なれた。」
「あなたを救うために、キリストがよみがえられた。」
律法は要求します。
恵みは与えます。
律法は罪を示します。
恵みは救いを示します。
なぜ人は律法ではなく恵みによって救われるのか
人は律法を完全に守ることができないからです
ここが決定的です。
人は律法を完全には守れません。
外側を整えることはできても、
心の中まではきよくできません。
人前ではよく見せられても、
神様の前ではそうはいきません。
だからこそ救いは恵みによるしかありません
もし救いが行いによるなら、だれも救われません。
でも神様は、人を救いたいと願われました。
そこでキリストが来てくださったのです。
①神様は聖いお方なので、罪を見過ごしにはされません。
でも同時に、
②愛のお方なので、罪人を救いたいと願われます。
この二つが出会う場所が十字架です。
キリストの十字架において、律法と恵みは出会います
キリストが罪の罰を引き受けてくださいました
十字架でキリストは、私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。
だから神様は正しいままで、なお罪人を赦すことがおできになるのです。
ここが福音の中心です。
神様は、
「まあいいか」と言って罪を見逃したのではありません。
キリストにおいて、罪の問題をきちんと解決されたのです。
十字架によって、恵みはただの甘さではなくなります
恵みは、罪を軽く見ることではありません。
十字架を見る時、
罪がどれほど深刻かがわかります。
同時に、
神様の愛がどれほど大きいかもわかります。
律法が示した罪の深さに、
恵みがキリストによって答えたのです。
まとめ――律法を知る時、恵みのすばらしさがわかります
律法は人を絶望させるためではありません。
「あなたには救いが必要だ」と教えるためです。
恵みは、
その救いをキリストにあって差し出します。
ですから、律法と恵みは対立しているだけではありません。
律法の先に、恵みの福音が輝くのです。
もし今、
「自分はだめだ」
「神様の前に立てない」
と感じるなら、そこからが福音の入口です。
律法があなたに罪を示したなら、
恵みはあなたにキリストを示します。
そしてキリストは今も言われます。
「わたしに来なさい」と。
この恵みのすばらしさを、今日ももう一度心に受け取りたいと思います。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。ガラテヤ書3章13節

