
この記事の目次
救われたクリスチャンの歩みとは何か|義認・聖化・栄化の恵みと、日々の応答
イエス・キリストを信じて救われた者には、どれほど大きな恵みが与えられているのでしょうか。
私たちは、ただ「罪が赦されました」で終わるのではありません。神は、キリストを信じる者を義と認めてくださり、この地上の生涯ではイエス・キリストに似た者へと変え続けてくださり、やがて主が来られる時には栄光のからだへと変えてくださると約束しておられます。
この流れを、聖書のことばで表すと、義認・聖化・栄化です。
少し難しく聞こえるかもしれませんが、これはクリスチャンの喜びと希望の中心にある真理です。しかもそれは、人間の努力の積み上げではなく、神の恵みによる救いの御業なのです。
福音の中心はイエス・キリストの十字架と復活
まず、すべての土台は福音です。
聖書は、すべての人が罪人であると教えています。ローマ3章23節には、**「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光を受けることができず」**とあります。罪とは、単に悪いことをいくつかするだけではありません。神を神としてあがめず、自分中心に生き、神から離れている状態そのものです。
そのため人は、自分の努力や熱心さや善行によって、自分を救うことができません。
しかし神は、そのような私たちを見捨てられませんでした。ヨハネ3章16節には、**「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。ローマ5章8節も、「まだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」**と語ります。
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。第一コリント15章3〜4節は、その福音の中心をはっきり示しています。
つまり福音とは、私たちが神に届く話ではなく、神がキリストにおいて私たちのために救いを成し遂げてくださった話なのです。
義認とは何か|神が「義」と宣言してくださる恵み
義認とは、神がキリストを信じる者を義と認めてくださることです。ローマ5章1節には、**「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので」**とあります。
ここで大切なのは、義認とは、まず「少しずつ良い人になること」ではないということです。
義認とは、神の法廷における宣言です。本来なら、私たちは罪ある者としてさばかれるしかない者でした。けれども、イエス様が私たちの罪の罰をすべて背負い、十字架で死んでくださったので、神はキリストを信じる者に向かって「この者を義と認める」と宣言してくださるのです。
ローマ3章24節には、**「ただ恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、無償で義と認められる」**とあります。
ここに福音の甘さがあります。私たちは、聖書をよく読むから義とされるのではありません。よく祈るからでも、立派に奉仕するからでもありません。キリストのゆえに、信仰によって、恵みによって義とされるのです。
ですから、クリスチャンの救いの土台は、自分の感情や調子ではありません。
「今日は祈れたから大丈夫」「今日は弱いからもうだめだ」というものではありません。
土台はいつでも、十字架で死に、よみがえられたイエス・キリストです。
これは大きな慰めです。私たちは、自分の義ではなく、キリストの義におおわれて神の前に立たせていただいているのです。
聖化とは何か|日々イエス・キリストに似た者へ変えられる恵み
次に聖化です。
聖化とは、救われた者がこの地上の歩みの中で、日々イエス・キリストに似た者へと変えられていくことです。第二コリント3章18節には、**「主と同じかたちに姿を変えられていきます」**とあります。
これも実に大きな恵みです。
神は、赦して終わりにはされません。義と認めた者を、そのまま放ってはおかれません。御霊によって、少しずつ、しかし確かに、イエス様に似た者へと造り変えてくださるのです。
私たちは救われてもなお、弱さを持っています。怒り、恐れ、不安、自己中心、頑固さ、愛の乏しさを感じます。けれども神は、それを見て見捨てる方ではなく、むしろそのような私たちを取り扱いながら、整え、訓練し、変えてくださる方です。
ここで大切なのは、聖化は単なる「自分磨き」ではないということです。
もちろん私たちには従順が求められます。けれども、本当に変えてくださるのは神です。ピリピ2章13節には、**「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」**とあります。
だから聖化とは、歯を食いしばって自分を飾ることではなく、主にとどまり、主に変えていただく歩みです。
ヨハネ15章で主は、**「わたしにとどまりなさい」**と語られました。枝が木につながっているなら、実が結ばれます。枝が自分で実を貼りつけることはできません。私たちも同じです。イエス様にとどまり続けるとき、御霊の実が結ばれていくのです。
聖化とは「キリストのかおり」を放つこと
聖化のすばらしさを表す、とても美しいことばがあります。
それが第二コリント2章15節の、**「私たちは神にささげられたキリストのかおり」**という表現です。
これは、本当に感謝なことです。
神は私たちを、ただ罪を赦された者としてだけでなく、キリストのかおりを放つ者へと変えてくださるのです。
キリストのかおりとは、何でしょうか。
それは、宗教的な雰囲気を作ることではありません。イエス様のご性質が、その人の歩みの中から少しずつにじみ出てくることです。たとえば、ことばが柔らかくなる。人を責めるよりも、あわれむようになる。苦しみの中でも主への信頼がただよう。へりくだり、愛、忍耐、真実が少しずつ見えてくる。
そういう歩みの中に、キリストの香りが現れるのです。
それは、自分で香水のように振りかけるものではありません。
主の前にとどまる中で、自然ににじみ出てくるものです。
よい香りのある部屋に長くいると、その香りが衣服に移るように、主の前にいる者には、少しずつ主の香りが移ってくるのです。何と感謝なことでしょうか。
栄化とは何か|やがて完全に変えられる希望

そして最後に、栄化です。
栄化とは、主イエス・キリストが再び来られる時、救われた者が完全に栄光のからだへと変えられることです。
ピリピ3章20〜21節には、「主イエス・キリストが…私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」とあります。
また第一コリント15章51〜52節には、「私たちはみな変えられます」と約束されています。
今の私たちは、救われていてもなお弱さがあります。
病もあります。老いもあります。涙もあります。罪との戦いもあります。
しかし、それが最終状態ではありません。
第一ヨハネ3章2節には、「主が現れたとき、私たちは主に似た者となる」とあります。
これが栄化です。
ですから、救いはこう言うことができます。
義認は、罪の罰からの解放。
聖化は、罪の力からの解放が進んでいくこと。
栄化は、罪の存在そのものからの完全な解放です。
何と大きな希望でしょうか。
神は、救いを始めてくださっただけでなく、最後まで完成してくださるのです。
このような恵みを受けた私たちは、何を神にささげるのか
では、このような大きな恵みを受けた私たちは、日々どのように神に応答すればよいのでしょうか。
ローマ12章1節は、その答えをはっきり示しています。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」
神がまず求めておられるのは、何か立派な業績よりも、私たち自身です。
「主よ、今日の私をあなたにおささげします。」
この祈りこそ、救われた者の日々の応答です。
宣教師のロバート・モファットの少年時代のこと・・・モファットは教会で神の福音と神の愛のメッセージを聴き、献金するお金を持っていなかったモファットは、回ってきた献金袋を床に置き、靴をぬいで自分を献金袋の上に立たせてこう言ったそうです。『わたしを神様にささげます・・・』と。
自分の時間、思い、ことば、計画、働き、弱さ、悩み、喜び、すべてを主に差し出すのです。
また、ヘブル13章15節には、**「賛美のいけにえ」**をささげようとあります。
感謝をささげることです。赦されたこと、今日も生かされていること、御霊が働いておられること、やがて栄光が待っていることを思うとき、感謝は自然にあふれてきます。
さらにヘブル13章16節は、善を行うこと、分かち合うことを忘れないようにと語ります。
つまり、愛の実をもって歩むことです。
人を励ます。赦す。祈る。分かち合う。親切にする。
それらは小さく見えても、神に喜ばれる尊い応答です。
まとめ|救われた者は、キリストのかおりを放ちながら栄光へ向かう
救われた者の歩みとは、何でしょうか。
それは、義認・聖化・栄化の恵みの中を歩むことです。
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義認:神がキリストを信じる者を義と認めてくださること
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聖化:救われた者が日々イエス・キリストに似た者へ変えられていくこと
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栄化:主が来られる時、完全に栄光の姿へと変えられること
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そして私たちの応答は、自分自身を主にささげ、感謝し、従い、愛の実を結ぶことです。
その歩みの中で、私たちは少しずつキリストのかおりを放つ者へと変えられていきます。
何と感謝なことでしょうか。
神は、罪を赦してくださるだけではありません。赦した者を、イエス様に似た者へと変え、やがて完全な栄光へと導いてくださるのです。
ですから感謝と確信をもって今日も、安心してこう祈ることができます。
「主よ、私をあなたにおささげします。今日も私をあなたに似た者へと変えてください。あなたのかおりを放つ者としてください。」

