恵みを安売りしない生き方、十字架の血で買われた「新しいいのち」の価値(ローマ人への手紙6章~)

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恵みを安売りしない生き方、十字架の血で買われた「新しいいのち」の価値(ローマ人への手紙6章~)

ローマ人への手紙6章から、「恵みによって罪が赦されるなら、もっと罪を犯してもよいのか?」という人間の浅はかな問いに答えます。神様の深い憐れみによる「無代価の恵み」を当たり前のものとして甘え、あぐらをかく危険性を警告しつつ、キリストと共に死んでよみがえった私たちが、喜びをもって「義の道具」として生きる真の自由を、解き明かします。

はじめに:恵みを「当たり前」にしてしまう人間の弱さ

私たちは、誰かから優しくされたり、無条件に許されたりすると、最初は深く感動し、感謝の涙を流します。しかし、悲しい人間の性質として、その優しさが日常的に繰り返されると、いつしかそれが「当たり前」になり、感謝を忘れてしまうことがあります。「あの人は優しいから、これくらい迷惑をかけても許してくれるだろう」という甘えが芽生え、気づけば相手の深い愛情にあぐらをかいてしまうのです。

信仰生活においても、これと全く同じ危険が潜んでいます。「神様は愛の神であり、どんな罪でも十字架の血によって赦してくださる」という素晴らしい恵みを知ったとき、人間の浅はかな心には、ある恐ろしい問いが浮かび上がってきます。それが、ローマ人への手紙6章の冒頭でパウロが取り上げている問題です。

1. 「どうせ赦される」という甘い罠――パウロの力強い反論

恵みを利用しようとする人間の浅はかさ

当時の人々の中に、こんな極端な理屈をこねる人たちがいました。 「神様の恵みは、私たちの罪が大きければ大きいほど、それを赦すためにより豊かに注がれると言う。それならば、神様の素晴らしい恵みをもっと増し加えるために、私たちは思い切って罪を犯し続けたほうが良いのではないか?」

一見すると神様の恵みを讃えているようで、その本質は「どうせ最後は赦されるのだから、自分の欲望のままに生きて、罪を楽しもう」という、神様に対する最大の侮辱であり、恵みの悪用です。

これに対し、パウロは激しい口調で一蹴します。

「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか。」(ローマ人への手紙 6章2節/新改訳)

神様の恵みとは、罪を犯しやすくするための「免罪符」ではありません。恵みにあぐらをかく生き方は、キリストの十字架の意味を全く理解していない証拠なのです。

2. 恵みとは何か?――決して「無料」ではなかった神の贈り物

恵みを安っぽく扱ってはならない

恵み(グレース)とは、本来「受ける資格のない者に対して、神様が一方的に与えてくださる無代価の贈り物」です。しかし、私たちが無料で受け取ったからといって、その恵み自体が「安物」だったわけでは決してありません。

ひとつの例えを考えてみましょう。 あるところに、莫大な借金を抱え、裁判所で死刑判決を受けた放蕩息子がいました。彼には返済する能力が1ミリもありません。そのとき、彼を心から愛する父親が全財産を投げ打ち、さらには自分の命と引き換えにするくらいのひっしの思いで、息子の借金をすべて肩代わりしました。息子は無罪放免となり、自由の身となりました。 これが「恵み」です。

しかし、もしこの息子が、釈放されたその足で再びギャンブル場に向かい、「大丈夫、また借金を作っても親父が代わりに命懸けで払ってくれるから!」と笑って罪を犯し続けたとしたらどうでしょうか。それは、自分のために命を捨てようとした父親の愛を踏みにじり、その血を泥足で踏みにじる行為です。 神様の深い憐れみのゆえの恵みを当たり前にしてはならないとは、まさにこのことです。私たちを赦すために、神の御子イエス・キリストがどれほどの苦しみを受け、十字架で血を流されたのか。その「恵みの代価」の重さを知る者は、決して恵みにあぐらをかいて罪にとどまることはできません。

3. キリストと結び合わされる「バプテスマ」の真実

古い自分の死と、新しいいのちの誕生

パウロは続いて、私たちが罪にとどまることができない理由を「バプテスマ」の真理から解き明かします。 バプテスマとは、教会という組織に入るための単なる入信儀式や、スタンプラリーのようなものではありません。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活に「完全に結び合わされる」という、ダイナミックな霊的現実です。

私たちが「バプテスマ」で水の中に沈むとき、神様に逆らい、自分の欲望を王座に置いていた自己中心的な「古い自分」は、キリストと共に十字架につけられ、完全に死んで葬り去られました。そして「バプテスマ」で水から上がるとき、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも「新しいいのちに歩む」者として復活させられたのです。

もはや、あなたは過去のあなたではありません。国籍が変わり、新しいパスポートを手に入れた人のように、あなたは罪の支配下(古い国)から完全に抜け出し、神の恵みの支配下(新しい国)へと移されたのです。

4. 何に仕えるか――「罪の奴隷」から「義の奴隷」へ

エピソード:自由を与えられた奴隷の選択

後半でパウロは、「奴隷」という当時の人々によく分かる言葉を使って説明します。かつての私たちは、自分の欲望に引きずり回される「罪の奴隷」でした。しかし今は、罪から解放されて「神に仕える者(義の奴隷)」とされました。

この「神に仕える(義の奴隷となる)」とは、規則でガチガチに縛られる苦しい生き方ではありません。あるエピソードが、この真理を見事に表しています。

19世紀のアメリカで、ある奴隷市場に一人の美しい少女が立たされていました。彼女は絶望し、周囲の人間を憎しみに満ちた目で睨みつけていました。「どうせ私を落札するのも、私を道具のように虐待する残酷な主人だろう」と諦めていたのです。

競りが始まると、一人の見知らぬ紳士が、他の誰にも出せないほどの莫大な金額を提示して彼女を買い取りました。紳士は彼女のもとに歩み寄り、一枚の書類を差し出しました。それは「奴隷解放証明書」でした。 紳士は優しく言いました。「私はあなたを奴隷にするために買ったのではない。あなたを自由にするために、私の全財産を払ったのだ。あなたはもう自由だ。どこへでも好きなところへ行きなさい。」

少女は驚きのあまり言葉を失い、その場に泣き崩れました。そして、去っていこうとする紳士の足元にすがりつき、涙ながらにこう言ったのです。 「どうかお願いです。私をあなたのもとに置いてください。鞭で打たれるからではなく、規則があるからでもなく、私を愛して自由にしてくださったあなたに、私は一生涯お仕えしたいのです。」

これこそが、パウロが語る「自発的な愛の応答」です。 私たちが神様に従うのは、地獄に落ちるのが怖いからでも、掟に縛られているからでもありません。ただキリストの計り知れない愛によって、罪の縄目を解き放たれ、自由を与えられたからです。その圧倒的な恵みに心が打ち砕かれたとき、私たちは自分の手足や能力を、不義の道具としてではなく、「義の道具」として喜びをもって神様に献げる者へと変えられていくのです。

5. 究極の対比:罪の報酬と、神の賜物(プレゼント)

ローマ6章23節が語る確かな希望

メッセージの最後に、パウロは力強い一つの宣言でこの章を締めくくります。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙 6章23節/新改訳)

人間が自分の欲望のままに生き、罪の奴隷として懸命に働いた結果、最後に受け取る給料(報酬)は「死(永遠の滅び)」です。それは労働の正当な対価であり、支払いを拒否することはできません。

しかし、神様は私たちに給料を渡すのではなく、全く次元の違う「賜物(無代価のプレゼント)」を用意してくださいました。それが、主キリスト・イエスにある「永遠のいのち」です。自分の努力で稼ぎ出したものではないからこそ、私たちは誇ることができず、ただ深く感謝して受け取るしかありません。

おわりに:恵みにふさわしく、喜びの応答を

恵みは、決して私たちを怠惰にさせたり、罪に甘えさせたりするものではありません。本当の恵みに触れた人は、神様の深い憐れみの前で膝をかがめ、「この新しいいのちを、あなたのために使わせてください」と立ち上がるのです。

今日、私たちはもう一度、十字架の血によって買われた「新しいいのち」の価値を見つめ直しましょう。神様の恵みにあぐらをかく古い生き方を捨て去り、愛する主のために生きる「義の道具」として、喜びと感謝にあふれた一歩を踏み出していこうではありませんか。

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