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【聖書通読 第22週4日目】弱者への配慮と、罪に死に神に生きる新しい命(申命記24章ローマ6章)
【旧約】申命記 24章 解説
申命記24章は、社会の中で最も立場の弱い人々(貧しい者、寡婦、孤児、在留異国人)の「命と尊厳」を守るための、神様の深い憐れみに満ちた規定が並ぶ章です。
前半の離婚に関する規定は、安易な離婚を推奨するものではなく、当時の社会で最も弱い立場にあった女性を、夫の身勝手な振る舞いから法的に保護するためのものでした。また、新婚の男性は一年間兵役を免除され「妻を喜ばせなければならない」と定められました。国家の軍事力よりも、一つの新しい家庭の基盤を築くことを優先する神様の温かい眼差しが感じられます。
中盤から後半にかけては、貧しい人々の生活の糧を奪ってはならないという具体的な指示が続きます。日々のパンを挽くための「石臼」を借金の担保に取ってはならないこと。お金を貸した際、担保を取るために強引に相手の家に踏み込んでプライバシーを侵害してはならず、外で待つべきであること。その日暮らしの日雇い労働者には、日没までに必ず賃金を支払うことなどが命じられます。
そして最後に、畑の麦やオリーブ、ぶどうを収穫する際、わざと少し残しておき、貧しい人々がそれを拾って生活できるようにしなさいと命じられます。神様はその理由として「あなたがエジプトの国で奴隷であったことを覚えていなければならない」(24:22/新改訳)と語られます。神の圧倒的な恵みによって救い出された者として、今度は自分が社会的弱者に惜しみなく恵みを分け与える生き方が求められます。神の律法は単なる規則ではなく、救われた民が神のご性質(愛とあわれみ)を地上に反映させるための、恵みの実践ガイドなのです。
【新約】ローマ人への手紙 6章 解説
ローマ人への手紙6章は、「恵みによって罪が赦されたのなら、もっと恵みが増し加わるために罪を犯し続けてもよいのではないか?」という人間の浅はかな問いに対する、パウロの力強い反論から始まります。パウロは「絶対にそんなことはありません」と一蹴し、キリストを信じてバプテスマを受けた者の霊的な現実を解き明かします。
バプテスマとは、単なる入信の儀式ではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活に「完全に結び合わされる」ことです。私たちが水に沈むとき、神に逆らう自己中心的な「古い自分」はキリストと共に十字架につけられ、死んで葬り去られました。そして水から上がるとき、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも「新しいいのちに歩む」者として復活させられたのです。ですから、私たちはもはや罪の支配下にある奴隷ではありません。
後半でパウロは、「奴隷」という言葉を使って分かりやすく説明します。かつての私たちは、自分の欲望のままに生きる「罪の奴隷」であり、その行き着く先は滅びでした。しかし今は、罪から解放されて「義の奴隷(神に仕える者)」とされました。自分の手足や能力を、不義の道具として罪に献げるのではなく、義の道具として神様に献げて生きるようにと勧められています。私たちが神様に従うのは、規則だから仕方なく従うのではなく、新しく与えられた命の喜びからあふれ出る自発的な愛の応答です。
最後に、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(6:23/新改訳)と力強く宣言されます。自分の努力で稼ぎ出す罪の給料は「死」ですが、神様が一方的な恵みとして無料でくださるプレゼントは「永遠のいのち」なのです。
今日神様がわたしに薦めておられることは?
申命記が教える「社会的弱者への配慮」の根底には、「かつてあなたも奴隷であったが、神が贖い出してくださった」という強烈な恵みの記憶があります。今日、神様があなたに薦めておられるのは、キリストの十字架によって罪の奴隷から解放された喜びを思い起こし、その恵みを周囲の人々に流し出していくことです。ローマ書が語るように、私たちはもはや罪に仕える者ではなく、神に対して生きる「義の道具」とされました。自分の小さな権利を主張するのではなく、キリストから受けた無条件の愛を動機として、今日出会う隣人に惜しみない愛と寛容を示す歩みを神様は喜ばれます。
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