【ローマ書7章】自分の罪に絶望する時、十字架は最も輝く――パウロの葛藤が教える「どん底からの恵み」

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自分の罪に絶望する時、十字架は最も輝く――パウロの葛藤が教える「どん底からの恵み」

クリスチャンとして神様に喜ばれる歩みをしたいと心から願いながらも、内なる罪に引きずられ、同じ過ちを繰り返して落ち込んでしまうことはありませんか。あの偉大な使徒パウロでさえ、自分の罪の深さに絶望し「みじめな人間だ」と叫びました。しかし、自分の罪を知れば知るほど、キリストの十字架の恵みは圧倒的な光を放ちます。罪のもがき苦しみから、感謝と喜びへと一気に引き上げられる福音の真髄を、あなたにお届けし、苦しむあなたの心を励まします。

はじめに:なぜ、真面目なクリスチャンほど罪に苦しむのか

「またやってしまった……」「なぜ私は、こんなにも変われないのだろう」。
夜、一人で静かに祈りの時を持つとき、自分の内側にある醜い思いや、何度も繰り返してしまう過ちを前に、深い自己嫌悪と絶望に押しつぶされそうになることはありませんか。神様を愛し、御言葉に従って歩みたいと心から願っているのに、現実の自分は、人に対して冷たく、身勝手で、嫉妬深く、愛のない振る舞いをしてしまう。
「こんな自分が、本当に救われているのだろうか」「神様は私に愛想を尽かしてしまったのではないか」。真面目で、神様への思いが強いクリスチャンほど、この痛ましい葛藤に悩み、もがき苦しむものです。
しかし、どうか安心してください。あなたがいま経験しているその苦しみは、決してあなた一人だけのものではありません。新約聖書の半分を書き上げ、命がけで世界中に福音を伝えたあの偉大な使徒パウロでさえ、あなたと全く同じ、いや、それ以上の凄まじい罪との闘いの中でもがき苦しみ、どん底を経験したのです。今日はローマ人への手紙7章から、罪の絶望がどのようにして「最高の感謝」へと変わるのか、その福音の秘密を解き明かしていきましょう。

1. 信仰の英雄が書き残した、もがき苦しむ姿

「したい善を行わず、したくない悪を行う」というリアル

ローマ人への手紙7章を開くと、私たちは驚くべき光景を目にします。いつもは力強く信仰を語るパウロが、ここではまるで別人のように、自分の内側にある「罪の性質」に振り回され、ボロボロになっている姿を赤裸々に告白しているのです。
聖書には、パウロの悲痛な叫びがこう記されています。
「私は、自分のしたい善を行わないで、したくない悪を行っています。」(ローマ人への手紙 7章19節)
パウロほどの素晴らしい信仰者であっても、「今日は神様の愛に応えて生きよう」と決心したそばから、心の中の黒い感情に飲み込まれ、自分の意志とは正反対の「したくない悪」を行ってしまう現実に直面していました。

信仰歴が長くなれば、罪は消えるのか?

私たちはしばしば、「信仰歴が長くなれば、やがて罪をあまり犯さないクリスチャンになれるはずだ」と誤解してしまいます。そして、いっこうに自分のこころの内にある罪がちいさくならない現実を見て、「私の信仰が足りないからだ」と自分を責め続けます。
しかし、パウロがこの手紙を書いたのは、彼がクリスチャンになったばかりの初心者だった頃ではありません。数々の奇跡を体験し、多くの教会を建て上げた、成熟した信仰の絶頂期に書かれたものです。その偉大な使徒が、「私の肉の中には善が住んでいない」と打ちひしがれているのです。この事実は、罪に苦しむ私たちにとって、どれほど大きな慰めになるでしょうか。

2. 絶望のどん底で絞り出された「みじめな人間」という叫び

部屋に差し込む強い光と、舞い上がるホコリ

なぜパウロは、信仰が成長すればするほど、自分の罪深さに苦しむようになったのでしょうか。一つの例えでお話ししましょう。
薄暗い部屋の中にいるとき、私たちはその部屋が「まあまあ綺麗だ」と思っています。しかし、そこに太陽の強い光が差し込んできた瞬間、どうなるでしょうか。空気中に無数のホコリが舞い、床の隅には見えていなかった汚れがはっきりと浮かび上がります。光が強ければ強いほど、汚れはより鮮明に見えるようになります。
私たちの霊的な歩みも全く同じです。神様の聖い光(御言葉と御霊の光)に近づけば近づくほど、私たちは自分の内側にある微細な「罪のホコリ」に敏感になります。以前なら気にも留めなかった小さな高慢や、心の中の冷たさが、神様の完全な愛の前では、おぞましい罪として見えてくるのです。
つまり、あなたが自分の罪に悩み苦しんでいるのは、あなたが神様から遠ざかっているからではありません。あなたが以前よりもはるかに、神様の光の近くを歩んでいる証拠なのです。

もがき苦しむのは、あなたの中に「新しい命」がある証拠

パウロはついに、自分の力ではどうすることもできない罪の力に押しつぶされ、絶望のどん底からこう叫びます。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙 7章24節)
「私はみじめだ!もうだめだ!」。これは、自分の意志や努力(自分の義)で自分を清くしようとする戦いにおける、完全な「白旗」の宣言です。
しかし、覚えておいてください。罪に鈍感な人は、罪を犯してももがき苦しむことはありません。死んだ魚が川の流れに逆らえないように、霊的に死んでいる人は、ただ罪の流れに身を任せるしかできません。あなたが「罪を犯したくない、神様のもっと従いたい、神様を喜ばせたい・・・」と願い、それに逆らってもがき苦しんでいるのは、あなたの中にキリストから与えられた「新しい命」が確かに脈打っているという、何よりの証明なのです。

3. どん底から見上げる、圧倒的な十字架の愛

自分の限界点が、神の恵みの出発点

「だれが私を救い出してくれるのか」。自分の努力の限界点に達し、どん底に倒れ込んだパウロは、そこでようやく、上を見上げました。自分自身の内側に答えを探すのをやめ、外側から与えられる救いに目を向けたのです。
その瞬間、真っ暗な絶望の底に、まばゆいばかりの光が差し込みました。パウロは一気に引き上げられ、歓喜の声を上げます。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ人への手紙 7章25節)
パウロが気づいた真理、それは「自分の罪が深ければ深いほど、この私を赦すために十字架で流されたイエス様の血潮の価値が、どれほど巨大なものであるかが分かる」ということでした。

罪が深ければ深いほど、キリストの愛の深さを知る

自分が小さな罪しか犯していないと思っている人は、キリストの十字架を見ても「ちょっと助けてもらった」程度にしか感じません。しかし、自分の中に「パウロと同じような、どうすることもできない強い力の醜い罪がある」と心の底から絶望した人は違います。
「こんなにも愛される価値のない、裏切ってばかりの私を、イエス様は決して見捨てず、命がけで愛してくださった(いや、命懸けでもすごいけれど、イエス様はいのちを捨てて下さった)。あの十字架は、他の誰のためでもない、この『みじめな私』のためだったのだ!」
罪の深さを知ることは、恵みの高さを知ることです。自分がどれほど深い穴に落ちているかを知った人だけが、上から下ろされた「恵みのロープ」の力強さに、心からの涙を流して感謝することができるのです。

4. 傷だらけのあなたを包み込む恵み

泥だらけの手を握りしめる父親

ある時、一人の少年が父親と「絶対に嘘をつかない、約束を守る」と固く誓いました。しかし、彼は誘惑に負けて約束を破り、それを隠すために泥だらけの服のまま、必死に自分で汚れを洗い落とそうとしました。しかし、洗えば洗うほど泥は服全体に広がり、どうしようもなくなってしまいました。
彼は絶望して泣き崩れました。「お父さんに合わせる顔がない。僕はなんてダメな息子だ」。
そこへ父親が帰ってきました。泥だらけで泣きじゃくる息子を見て、父親は彼を叱り飛ばしたでしょうか。いいえ、父親は自分が着ていた真っ白な高価なコートを脱ぎ、泥だらけの息子をそのまま強く抱きしめ、自分のコートで彼をすっぽりと包み込んだのです。
「いいんだよ。お前が自分で綺麗になれないことは、最初から分かっていた。だから、私のこの白い服をお前に着せるために、私はここに来たんだ。」
イエス・キリストの十字架の愛とは、まさにこの父親の愛です。私たちが「自分で何とか罪を克服しよう」とあがき、泥だらけになって「私はみじめだ!」と泣き崩れたその場所に、イエス様は来てくださいます。そして、ご自身の「完全な義」という真っ白な衣で、私たちの罪をすっぽりと覆い隠し、強く抱きしめてくださるのです。

「だからこそ、イエス様が私には必要だった」という賛美へ

パウロは自分の罪に悩みもがき苦しみました。しかし、そのどん底の苦しみがあったからこそ、「だから私には、どうしてもイエス・キリストの十字架が必要だったのだ!イエス様でなければ、私は絶対に救われなかったのだ!」という、力強い賛美へとたどり着くことができました。
罪のもがき苦しみは、私たちを神様から引き離すものではありません。むしろ、私たちから「自分の力で立派になれる」という傲慢さを打ち砕き、キリストの十字架の恵みだけに100パーセントすがりつくための、神様からの恵みのプロセスなのです。

おわりに:もう、自分で自分を救おうとしなくていい

クリスチャンである愛する兄弟姉妹。
もし今日、あなたが自分の罪の深さや愚かさに直面し、パウロのように「私はほんとうにみじめだ」と落ち込んでいるなら、どうかその顔を上げてください。
あなたは、自分の力で自分を聖くする必要はありません(できません)。あなたがどんなに醜くもがき苦しんでいても、イエス様の十字架の愛は、あなたのその罪をはるかに上回って、あなたを赦すために、あなたを包み込んでくださいます。
自分の罪に絶望したその夜こそ、十字架の光があなたの人生で最も美しく輝く瞬間です。「こんなどうしようもない私だったからこそイエス様の十字架必要だったのです。いえ、わたしのこんなどうしようもない罪のために十字架で身代わりに死んでくださる必要があったのです。主よ、わたしの罪のために死に、わたしを永遠のいのちで祝福するために共に甦ってくださったことを感謝します。ありがとうございます」。その涙の感謝があなたの心に溢れるとき、あなたはすでに、罪の絶望のどん底から恵みの頂上へと一気に引き上げられているのです。もう自分を責めるのはやめて、あなたを完全に赦し、愛し抜いておられる主イエス・キリストの胸の中で、深く安らごうではありませんか。

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